コロナと伝道の機会

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令和二年はオリンピックが東京で開催されるべき年だった。1964年の東京オリンピックは、戦後復興がいかに着実に進んでいたかを世界に示し、それが分岐点となって、日本は世界に羨望されるような驚異的な高度経済成長をなしとげた。今、このオリンピックに寄せられた期待は大きい。「失われた10年」や東日本大震災の被害から立ち直り、日本は再び復興への道を歩む。しかし一昨年の冬、中国武漢に発生した新型ウイルスの蔓延で、すべてが期待外れになってしまった。不運と言えば不運。リア王の則近、グロスター伯は、悲惨な一生を顧みて「悪戯する子供がハエを遊びで潰してしまうのと同じように、神々は私たちを殺すのをスポーツにしているのか」と嘆いた。そのような霊的、精神的な空虚がいたる所にみうけられる。この空虚を埋める力は、八百万の神々にも伝統的仏教にもない。対照的に、キリスト教には明確なメッセージがある。事実、私たちが大宣教命令を実現に移すためのよき潮時が来た。なぜなら、

  1. なぜ疫病が蔓延するのか、についてキリスト教は明快な答えをもっている。それは「個人や国や国々に警鐘を与えて、彼らが精神的な居眠り、あるいは反抗から目覚めて、罪を悔い改め、神への信仰に戻り、聖なる聖書に書かれている密接で健全な関係を神と結ぶことにある。」iそして、行き着く所は希望に満ちている。(脚注参照)

  2. この神の審判と愛のメッセージを伝えるのに、私たちは世界の全ての人に知らせるための日曜日の礼拝という特別な集会をもっている。仏教にも、神道にも、そして人文主義的な儒教の教えにも、同じような継続的な機会は見うけられない。 

天災地変が起こったり疫病が蔓延したりすると、仏教も神道も、それを祟りと言う言葉で説明する。祟りを避けるために、神、仏、あるいは亡霊を拝む。それ以外何も出来ない。儒教は、天災地変を天命として抵抗せずに受け取る事を説く。この三つの宗教と教えは、諦観を処世術として教えているだけだ。 

キリスト教は神の怒りを隠さない。神は峻烈に神に逆らう者を裁く。しかし同時に神は慈悲深い神であって、悔い改めを求める。「わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、 打ち倒し、 滅ぼすと言ったそのとき、もし、わたしがわざわいを予告したその民が立ち返るなら、わたしは下そうと思っていたわざわいを思い直す。」(エレミヤ18:7-8) 

「これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの贖いが近づいているからです。」(ルカ21:28) 私たちの罪の贖いは、主イエス・キリストが私たちの身代わりになって、十字架の刑を受けられたことから来ている。この疫病の最中にあっても、神の救いの計画は動いていて、私たちには救いと永遠の命という賜物が授かれているのだ。私たちのメッセージに満ちているのは、希望であって、あきらめではない。キリスト教の本質は「信仰と希望と愛」の三つの言葉に要約されている。日本の隣人や友人に、是非ともこれを知らせなければならないと思う。

1970年のことだが、ジュネ ーブで行われた世界宗教会 議に参加し、アメリカ北部長老教会の総幹事ユジーン・カーソン・ブレーク牧師と京都東西本願寺の二人の座主との対話の通訳をしたことがある。私たちは聖ペテロ大寺院の中にいた。カルヴァンが 説教をしたことのある講壇を見上げながら、ブレーク牧師は説教が、新教の全教派で礼拝の中心にあることを力説した。 真宗の二人の座主は勤行でお坊さんたちに仏法を説くことがあっても、すべての信徒を相手にする日曜礼拝の説教のような式次第は仏教にはないと答えた。

事実、私たちは日本の伝統宗教にはない素晴らしいプラットフォームをもっている。私はこれを最大限に利用 しなければならないと思う。パンデミックが無かったら、私たちの多くはインターネットを使って伝道をすることを考えなかっただろう。ここに見られるのは、行き届いた神のみ恵みである。現在、教会の会堂内に入れる人数は限られているところが多い。 通常の礼拝をしながら、教会に来られない信徒たちのためにZoomなどのインターネット技術を使った礼拝を併用する、あるいはオンラインだけで礼拝を行う教会もある。これがアメリカなどに見受けられるテレビ伝道と違うのは、教会内の信徒の交わりの温かみがそのまま感じ取れるという点である。特にZoomは私たちの教会を壁のない教会に仕上げて、普段会堂に直接来られない多くの人を集める土台を作ってくれた。日本の伝道で常に問題になるのは、教会の敷居が高いと言う声だろう。確かにその敷居は超えにくい。しかし、Zoomによる、この壁のない教会には、越えにくいそういった高い敷居は見られない。きちんとした服装 でなくても、普段着や部屋着のままで、パソコンやスマホさえあれば、この壁のない教会の礼拝に参加できる。

これまで経験しなかったよき機会が与えられているわけだ。このような状況がもしもあなたに与えられているなら、次の一歩として以下をお勧めしたい。

a). 信徒でない配偶者を招いて一緒に説教を聞き、礼拝をする

b). 友人や隣人を自宅に招いて、オンラインで一緒に礼拝する。

c). 仕事の同僚をオンラインの礼拝に招く。

「千里の道も一歩より始まる。」これがその第一歩である。C.についてちょっと付言しておきたい。私は長年週刊『 世界と日本』誌に寄稿し、その関係で親会社内外ニュ ース社に招かれ日本各地でよく講演をした。時々キリスト教について質問が出てくる。私が「地方の教会の礼拝に参加されたら如何?」と尋ねると、うちの社長の菩提寺はこちらの名刹~寺でとか、筆頭株主は地方神社氏子の総代表でなどと言われる。「会社のイメージということもありますので」と否定的な返事が返ってくる。そのような心配はオンラインの場合一切不必要である。

第二のステップは、教会会衆の全員を教会開拓者として訓練することである。実業の世界で品質管理をする時、社長から配達夫に至るまで全員が参加することによって、予期した結果が得られる。教会開拓を成功させるのにも全員参加が望ましい。具体的には(1) シティー・トゥー・シティー・ジャパ ンが提供する各種トレーニングに参加する、(2) 小さなグループの聖書を読む勉強会に参加する、ことなどが考えられる。

シティー・トゥー・シティー ・ジャパンが提供する訓練コースは、聖書に忠実で 福音を中心とした文脈化を真剣に考えている。時間を割いて丁寧に神学の理解に努める。これは勿論 よい事である。そういった神学のトピックの一つ一つに、以下のような簡単な質問を常に考えて頂きたい。「この概念を、クリスチャンでない友人に 説明するにはどうしたらよいのか?」訓練を受けている人も講師もみな、キリスト教の教義を信じていない人の目から見る習慣を身につけるのである。パウロの言葉を使ってこう考えてみよう。「私は未信者ではありませんが、未信者のようになりました。未信者を獲得するためです。」(Iコリント9:20参照)。そうしていくうちに文脈化することが自然に身についていくだろう。

聖書を読む勉強会についても同じことが言える。会のメンバーは 5人か 6人、できれば違った背景 、異業種の人たちで構成されることが望ましい。お互いを啓発し、聖書を読む喜びを共に見つけるのである。牧師が加わる場合 、注釈に終始することを避けて、よき聞き手になって頂きたい。メンバーの神学が正確であるかどうかを気にするよりも、聖書の一つ一つの言葉がもっている力と聖霊の導きに頼るのだ。「聖書の言葉によって力づけられた信者は、それを持たないどの教皇よりも力強い」とルターは万人祭司を唱え、それがプロテスタントの伝統になっている。異業種間の信者の生活の知恵から学ぶことは実に多い。私の経験を述べさせてもらえるならば、昨年の三月以降、私は千葉のある教会の礼拝にZoomを通して参加し、その教会員ほか数名と週一度の聖書を読む会に参加している。私が現在住んでいるのはアメリカ、メリーランド州なので日本は遠い。しかし毎週Zoomでのこの礼拝や勉強会に参加すると、日本に帰ってきたような気持ちになる。会ではメンバーの識見の豊かさに感服させられた。1950年代の初期にウェストミンスター神学校で感じた聖書を学ぶ喜びを、この会が再現してくれた。

パンデミックが終わる日は必ず来る。それがいつかは神の計画なので私たちにはわからない。確かなのは、神が私たちに悔い改めを求めておられ、宣教の機会を与えて下さっているということだ。日本人は伝統を重んじる国民、今まで伝統仏教、神道や儒教の教えで事足りて、それが障壁となってキリスト教の伝道は妨げられてきた。しかし、国難に遭遇した時には速やかに世界観を変える進取の気性と良識をもっている。 紀元552年仏教が伝来した時、日本の各地は疫病に悩まされていた。それに伴う国難が従来のあり方に疑問を加え、新しい宗教を受け入れる土台を作ったのである。これは今日の日本に何かを示唆しているのではなかろうか。日本人は宗教心をもっている。それはよい事だ。しかしその心は「知られない神に」(使徒の働き17:23)むけられている。私たちの神は天地を創られた真実の神、百済王の進物のような人間の手で刻まれた偶像ではない。それを知らせるのが私たちの義務であり、今のような機会はまたとない。神の御霊が私たちに宿り、私たちを導き、神の栄光が日本にもたらされることを祈るものである。

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脚注: ローゼンベルグ氏の文章からこの一節をかりた。註2参照。

 

著者

デイビッド・ルー

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米国の歴史学者。バックネル大学名誉教授。基隆(台湾)生まれ。

日本の中国大陸征服政策に関心をもつ。1950年渡米。ウェストミンスター神学校でポール・ウーリー、ジョン・マーレーなどに師事。コロンビア大学から1954年修士号取得、’59年ラトガース大学講師となり、1960年大東アジア研究所で「太平洋戦争への道程―蘆構橋より真珠湾へ」(’61年)により博士号を取得する。のち、’60~64年バックネル大学助教授、’64~69年準教授、’69年以降教授を歴任する。同時に65年以降、同大学日本研究所所長も務める。著書に「松岡洋右とその時代」(’81年)他がある。2017年、ペンシルバニア歴史協会に働きかけ、日本への初のプロテスタント宣教師J・C・ヘボン師の記念碑設置に寄与。最近の著書に「日本宣教を阻む5つの障壁」(いのちのことば社、2020)がある。


As the year 2020 is about to close, let us take stock of what this year has meant for our Japanese friends. This was designated as the year of Tokyo Olympics. In 1964, when Olympics were held in Tokyo, Japan was able to showcase her rapid recovery from the devastation of the Second World War, and unprecedented economic expansion followed. Their hopes have been to replicate that economic miracle and to wipe away memories of the lost decades and of the 2011 Tohoku earthquake and tsunami. All of their expectations were dashed with the arrival of an invisible enemy, the new corona virus. Fate has not been kind to Japan, and the nation is now be moaning with Earl of Gloucester in King Lear: "Like flies to wanton boys, are we to the gods, they kill us for their sport". For the spiritual vacuity thus created, their myriad Shinto deities and Buddha cannot provide an adequate answer. In contrast we do, and time is ripe for us to fulfil our great commission in Japan. To wit:

  1. Christianity has a clear message of why pandemics occur. It is in God’s plan to “Shaking an individual, nation, or many nations so that they will wake up from spiritual slumber or rebellion, repent of their sins, and turn in faith to a holy, personal, Biblical, healthy relationship with God (see footnote).

  2. We have an effective means of transmitting this message of God’s judgment and His love for all the peoples of the world through our Sunday worship service. Buddhism, Shintoism and humanistic teachings of Confucianism, which compete against us to capture the hearts and souls of Japanese people, do not have a similar and sustainable platform to convey their messages.

When disaster strikes Japan, Buddhism and Shintoism both explain it by the term ‘tatari’. Tatari means vengeance of gods, Buddha, or of ghosts. Those who are subjected to ‘tatari’ have no other recourse except to pay tribute and worship the offended parties. Confucianism taught resignation. One cannot fight against fate since it comes from a command of heaven. What is common in these three major belief systems is a concept of resignation, a quiet acceptance of fate.

Christianity is not bashful about admitting God’s anger. God has dealt harshly with those who have disobeyed Him. Yet He is also a merciful God seeking repentance: “The instant I speak concerning a nation and concerning a kingdom, to pluck up, to pull down, and to destroy it, if that nation against whom I have spoken turns from its evil, I will relent of the disaster that I thought to bring upon it” (Jeremiah 18:7-8NKJV).

“Now when these things begin to happen, look up and lift up your heads, because your redemption draws near.” (Luke 21:28, NKJV). Our redemption comes from our Lord dying on the cross for our sins. Even in the midst of a pandemic, we can see God’s plan of salvation at work with its promise of salvation and gift of eternal life. Our message is one of hope and not of despair or resignation. The essence of Christianity can be summarized in three words: “Faith, Hope and Love.” This is the message we must convey to our friends and neighbors in Japan.

Back in 1970, I attended the Temple of Understanding Summit held in Geneva and had occasion to interpret for Dr. Eugene Carson Blake, stated clerk of PCUSA in his conversation with heads of two branches of Shin sect from Kyoto. We were at Saint Peter’s Cathedral. Looking up to the raised lectern where Calvin once preached, Dr. Blake stressed the centrality of a sermon in the worship service of all Protestant denominations. The Shin sect leaders talked about preaching to other priests, but reaching lay people in this fashion was not in their Buddhist tradition.

Indeed we have a unique platform and this must be utilized to the hilt. God’s grace is such that in these days of uncertainty, He has expanded our outreach. Had it not been for corona virus, we might not have thought of holding our church services virtually via Zoom or combining in-person service with Zoom. Church service over Zoom or other internet tools are quite different from TV evangelism sponsored by mega churches. Zoom retains the personal touch and warmth one finds in regular church services. It is a church without wall surrounding it. And in this church without wall, it is easier to ask others to join in. There has been a perception in Japan that the gate of church is difficult to enter (shikii ga takai). When a service is conducted via Zoom a person can join in without worrying about his attire or hairdo. Common excuses for not accepting an invitation to church can now be brushed aside.

This creates an opportunity we must not miss, as the first step:

(a) Any believer with an unbelieving spouse can now ask him to join her in worship.

(b) A friend can be invited to worship with a believer’s family at his home.

(c) A colleague can be invited to worship at his own home.

These are simple steps, but as the sayings go “A trip of one thousand miles begins with the first step. A few words about (c) are in order. For many years, I served as a correspondent for Japanese weekly The World and Japan. I was often invited by its parent company Naigai News to give speech across Japan. Once in a while questions about Christianity would come up. I usually would say to my questioners: “Why don’t you try your local church?” Responses I got were something like these: “My company president’s family temple is the major temple of this town,” or “The top stock holder is the organizer of the next Shinto festival, and company image is such that I must avoid going to church.” That consideration does not apply with Zoom.

The second step is to encourage all members of the congregation to be trained as church planters. In the business world, when they engage in quality control, the key to success has always been full participation by all employees, from the president down to the delivery boy. In church planting the same principle of full participation must apply. This training can be done either (a) by participating in City to City Japan’s training course, or (b) by participating in a voluntarily set small Bible study group.

The City to City training program shows a strong commitment to evangelism and to its contextualization. Without knowing details, I would like to make one suggestion. More hours are being spent in the study of theology. That of course is a must. Thus, whenever an important issue of theology is raised, ask the participants this question. “How can I explain this to my friends who do not accept Christ?” Ask them to get into the shoes of non-believers. To paraphrase Paul: “To non-believers I became like a non-believer, to win non-believers” (See 1 Corinthian 9:20). Encourage them to get out of the box for the sake of contextualization.

The same approach must be followed in Bible study groups. Ideally this Bible study group will consist of five or six like-minded seekers from different professions. They will share the joy of discovery by reading the Bible together. If a minister is a member of a group, I hope he will become a good listener and avoid excessively engaging in biblical exegesis. Do not worry about theological soundness of participants. Trust in the guidance that comes from the Holy Spirit and from the Word itself. Luther once remarked that “the virtue of a layman armed with the Scripture is far mightier than the mightiest pope or any other potentate without it,” and advocated universal priesthood. That is part of our Protestant tradition. If I may interject a personal note, I have been participating in the Zoom service of a Japanese church in Chiba since last March, and have studied the Bible together with five members of that church. Living in Bel Air, Maryland, Chiba is far away. Yet week after week, this little church and the study group have made me feel that I am back in Japan. As for the Bible study group, the insights given by other participants have been invaluable. It has rekindled the joy I felt studying the Bible at Westminster Seminary, which was back in the early 1950’s.

In God’s plan, the scourge of this pandemic will pass, we just do not know when. What we know is that God is seeking our repentance, and is giving us a chance for evangelizing Japan with renewed vigor. Japanese are known for their observance of tradition, and heretofore they satiated their spiritual needs through Buddhism, Shinto and Confucian teachings. These religions have been effective barriers against Christian evangelization. However, when an unprecedented national crisis occurs, the Japanese people are also known for their ability to change their worldview and transform their country expeditiously.

In the year 552, when Buddhism was introduced into Japan, plagues of unknown origin occurred in various parts of the country. That crisis was in large part responsible for the eventual acceptance of a new religion. Does this not say something for today’s Japan? Japanese are religiously minded people, and it is a good thing. Their worship, however, has been directed “to the unknown god” (Acts 17:23). We must show them that our God is the true God who created the heaven and the earth, and is not an idol made of man’s hand brought to Japan as a gift from the king of Baekje. That is the duty we all have as Christians, and this chance is not likely to come again. Let us join together in prayers and supplications that His Holy Spirit will abide with us and guide us to bring glory to His name in Japan.

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Footnote: I owe this phrase and two biblical citations to Joel C. Rosenberg, “What does the Bible Teach about Plagues, Pestilence and Global Pandemics.”

 

About the Author

David John Lu

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David John Lu is Professor Emeritus of History and Japanese Studies, Bucknell University.

He has enjoyed superb contact with every strata of Japanese society. The Nobel laureate Sato Eisaku was his close personal friend.

He also knew 17 to 18 other prime ministers personally. From 1972 through 2012, he wrote a column in Japanese for a weekly The World and Japan, and often served as a featured speaker for its 16 bureaus across Japan.

デビッド・J・ルー

米国の歴史学者。

バックネル大学教授。

基隆(台湾)生まれ。

日本の中国大陸征服政策に関心をもつ。1950年渡米。ウェストミンスター神学校でポール・ウーリー、ジョン・マーレーなどに師事。コロンビア大学から1954年修士号取得、’59年ラトガース大学講師となり、1960年大東アジア研究所で「太平洋戦争への道程―蘆構橋より真珠湾へ」(’61年)により博士号を取得する。のち、’60~64年バックネル大学助教授、’64~69年準教授、’69年以降教授を歴任する。同時に65年以降、同大学日本研究所所長も務める。著書に「松岡洋右とその時代」(’81年)他がある。2017年、ペンシルバニア歴史協会に働きかけ、日本への初のプロテスタント宣教師J・C・ヘボン師の記念碑設置に寄与。

『太平洋戦争への道程 -蘆溝橋より真珠湾へ』

translator:田島周子(Tajima Kaneko) Publisher:原書房(Hara Shobo)

1967『松岡洋右とその時代』 Matsuoka Yosuke and His Times, 1880-

1946 translator:長谷川進一(Hasegawa Shin-ichi) Publisher:TBS・ブリタニカ(TBS-Britannica)

1981/11『アメリカ自由と変革の軌跡 -建国からオバマ大統領誕生まで』

David John Lu is Professor Emeritus of History and Japanese Studies, Bucknell University. He has enjoyed superb contact with every strata of Japanese society. The Nobel laureate Sato Eisaku was his close personal friend. He also knew 17 to 18 other prime ministers personally. From 1972 through 2012, he wrote a column in Japanese for a weekly The World and Japan, and often served as a featured speaker for its 16 bureaus across Japan.