なぜ悲しいのか、なぜ怒っているのか、なぜ逃げたいと思うのか、なぜ失望しているのか、本当のところの、本当の理由が何なのか、あまりわからないまま過ごすことの方が多いように思います。なぜ嬉しいのか、なぜ今日は気分がいいのか、なぜ挑戦しよう!と張り切ったのか、本当のところの、本当の動機が何なのか、あまり考えずに過ごすことの方が多いのではないでしょうか。英語で”Name it” と言うフレーズを頻繁に耳にした時期がありました。‘それ’を名付ける。様々な感情をもたらせている‘それ’は何か?一体、何なのか?考えない方が楽だけど、「何か」を言葉にすることについて考えさせられました。
ところである時、「嘆く」ということをテーマに話し合っていて、「あなたがパンデミックによって失い、嘆いていることが何か」を言葉にしてみましょう、ということになりました。私は、その時とても戸惑いました。文句を言いたくない、しょうがないんだし、と、ただただ受け入れてきたからです。受け入れる、と言えば響きが良くても、実際のところ、そういうことを考えてジメジメしたややこしい自分に直面したくない、という理由で、‘失ったこと’を考えることを避けていただけです。ある時は、「神に祈り求めたいこと」を書いてみましょう、ということになりました。私は、この時もやはり、戸惑いました。求めていることを実際に言葉にして書くということは、まず、それを持っていない自分を認めることになり、それを願っている自分を認めることになり、願ってももらえないかもしれないことを恐れる自分を認めることになり、遂には本当のところ神を信頼していない自分を認めることになるからでした。
またある時、「罪の根っこにあるのは何か」を言葉にしてみましょう、ということになりました。根っこの部分以外は、なんとなく消化しながら言葉にできても、まさに根っこの部分は、あまりにも痛みを伴うので、言葉にすることすら非常に怖いことのように思えたのです。
‘それ’と言うのは、言葉にして口に出してみた時に、他の人にとっては、そうなんだね、ぐらいのことであっても、当事者である私にとっては、言った途端に何かが崩れてしまうのではないかとさえ感じることなのです。自分が’何か’を言葉にした途端に、その’何か’が絶対的な力を持ってしまうような気がするのです。’何か’を口にした途端に、一番恐れていること—価値がない、愛されていない、希望はない、なんの楽しみもない、守ってくれない、そのようなことを聞くことになるのではないか、と。
その時々の私にとっては、‘それ’を神に向かって言葉にすることが従順の一歩でした。あんなに無関心を装ったり、怖がっていたのにも関わらず、一つ一つを言葉にして口にしていくことは、痛みを伴いつつも、新たに神の恵みの大きさを知ることにつながりました。言葉にすることによって、実は悲しんでいた自分を知り、想像もしていなかったなぐさめを知ることになりました。無力である自分を言葉にしたときに、救い主は力を帯びていました。醜い自分が言葉になったときに、価しない愛を受けていることに気づかされました。
神の恵みの中は安全です。私たちの思いを遠くから内から知っている神は、私たちの恐れも不信仰もまた喜びも信仰もご存知です。神のみ前には、‘それ’を言葉にする痛みを包み込んで、はるかに超える恵みがあるのです。
著者
グレイトリー詩子
詩子はデイミアンと結婚しており、共に英国のリージェンツ神学校で学んだ。彼らは若い頃からミニストリーに携わっており、福音を通して霊的、社会的、そして文化的な刷新が自分自身、家族、そして街にもたらされるため、よく整えられた次世代の教会開拓者を見たいという思いがある。教会開拓者の妻を支えるミニストリー、パラカレオのトレーナー&グループリーダーとして、女性に仕えている。