教会の中の異文化
日本で宣教するにあたり福音に根ざした教会文化の中にも混在する日本の伝統・文化や慣習に対してどう向き合っていくかということがひとつの鍵になるかと思います。
海外から来られた宣教師の皆様も日本に長年住んでいるうちにいつの間にかお辞儀を無意識にすることが増えていたり、些細なことでも日常的に「すみません」を多用してしまったり。気付かない内に日本の文化を自分のものとして受け入れていると感じることはありませんか? このように日本にある教会の文化にも多くの日本特有の文化が潜んでいても当然のことであると思います。
これは旧約聖書でイスラエルの民が他の民族の偶像崇拝の文化に影響を受けた例や、新約聖書で初代教会の時代でも異邦人の習慣や信仰がいつの間にか教会内の福音の文化と混ざったことに対する危険性を聖書が示している通り、昔から続く現在進行形の問題です。
しかし決して日本の文化がすべて悪いものであるという訳ではないということも明確にしておきたいと思います。むしろ日本の文化で神の栄光を現す側面はたくさんあります。そのため日本文化=悪と考えて全て排除すれば良い、というような安易な考えは解決策にはなりませんし、かえって宣教の妨げになる可能性が大いにあります。教会の中で見受けられる日本文化が福音の文化に共鳴できるものなのかどうかを見極めるためにその文化の根底にある日本人の心を知る必要があるのではないでしょうか。また同時にその文化と比較してそもそも福音の文化は何なのかということを明確にする必要があります。
日本に根づく贈答文化
日本に浸透している文化のひとつとして「贈答文化」があります。わかりやすくいうと贈りものをする、お土産を送りあう慣習に代表される文化です。企業勤めの方々は顧客や提携企業の皆様に季節ごとにお中元、お歳暮、年始のご挨拶を送付、相手先へ訪問の際には手ぶらではなく手土産を持参しご挨拶に伺う機会も多くあるのではないでしょうか。
文化人類学的にも価値のあるものを贈る「贈与」という概念は関係づくりを始めるにあたり、人類のあらゆる社会において大切な習慣とされてきました。しかし贈るだけではなく、日本では贈与を受けた者が送り主にお返しをするということが礼儀として非常に大切とされます。例を挙げると日本では女性が男性へ贈り物をするバレンタインデーの1ヶ月後にはホワイトデーが設けられ、ほぼ義務的にしっかり贈与を受けた人は相手にお返しをすることが求められています。また出張や旅行に出る際にはお願いされてなくとも必ずお土産を買わないと心が落ち着かないといったある意味儀式的な習慣も日本独特の文化であると思います。日本では関係を保つために贈与を繰り返し、等価交換が成り立つギブアンドテイクの関係であること、また平等にお互いを気遣いあいながらも相手に迷惑をかけないことが非常に重要視されているように感じます。
贈答文化の中の福音
キリストを信じる者として贈答について考えてみましょう。
聖書を読み、福音を聞く時、私たちは神が与えてくださった最大の贈りものについて知ります。それはイエス・キリスト。罪のない聖なる神の御子が十字架に架かることと復活によって神のこれ以上ない犠牲の愛を私たちは知り、そして心変えられ、罪からの救いを与えられます。これ以上ない一番の贈り物を既に神から受けているのです。「贈答の文化」では「贈」の後に必ず「答」があリます。もし神にお返しをしなければいけないのであれば、イエス・キリストに匹敵するお返しはどうすればいいのでしょうか? 私たちの一生を持ってしても返しきれない贈り物を受けているのですから、私たちにはどうしようもなくなります。
それであれば自分の持てる全てを神に捧げようと、宣教の働きに関わる方もいるかもしれません。しかし、もしこのまま神様に宣教や教会の立て上げという贈り物を送り続けることができなくなったなら、神様に嫌われてしまうのではないか? という不安や疑問を持つことはあるかもしれません。私が行いによってAを神様に贈るので、神様も私にA’を与えてくれる。というギブアンドテイクの関係。多くの宗教でこの方程式は良く見られますが、残念ながらこれは福音の本質ではありません。
根底にある不信仰
このような不安の原因を考えると、実は私たちの心の深い部分での神の無条件の愛に対する不信仰が、神に対する「お返し」の必要性を生み出しているのかもしれません。
不信仰が贈答の文化に触発され、神の教会に仕える良い行いすらも神のご機嫌を伺うための行動となってしまうこともあります。教会に仕えることで実はキリストの愛を買おうとしてしまうことが私自身もよくあります。
そうなると神様は良いお方であると頭ではわかっていながらも、自分の霊的成熟や教会成長を目安に、自分が不完全と思える要素は全て神が私を愛さない理由となります。もしくはもっと成功しているように見える他の教会の方々が、宣教において結果を出しているから彼らの方がきっと愛されているだろう、と妬みの原因にもなります。不信仰のゆえ不安になり迷える中、個人的に心動かされたのはガラテヤ人への手紙からの聖句でした。
私たちクリスチャンはただ良い主人に仕える奴隷として受け入れられているのではなく、御子の御霊を与えられ、信仰によって父なる神の養子として受け入れられていることを知りました。律法的に良い行いを持って神にお返しを送り続ければいけない負債への責任感につながれた奴隷のような精神から救い出されました。そもそも返せない程の恵みを受けているということ、また神の一方的な赦しで私たちは負債から解放されていること。神が一方的に贈り物を持って、貧しく返すことの出来ないものである私たちを憐れみ、施し、愛してくれたということ。これが、私が信仰者として日々受け取るべき父なる神の愛だと思いますし、この真理にとどまることが私たちの信仰を整えます。ただ恥ずかしながら罪深い私の心は頻繁に自分の生まれ育った贈答の文化に戻り、神に自分はどのくらいお返しできたかということに自分の心の平安を見出していたのです。養子の概念もなかなか理解できていなく、まるで外国に留学し優しい受け入れ先の家族のご好意でホームステイさせてもらっているような感覚で父の愛を受け止めていました。自分の不信仰や私に対する神の愛情に疑問を持ってしまうのも、神の子とされたアイデンティティが福音によって確立できていないためだとわかりました。ホームステイと養子として子供とされるのとは全く次元の違う話です。奴隷のように働いて神に恩を返さなきゃいけないという恐れと義務感の鎖からは解放され、喜びのうちに大胆に子として父なる神との関係を育てることができるのです。イエス・キリストに留まることで自然と父の喜ぶことを知り、父なる神の御心の求めるように私たちは生き始めることができるのです。
福音文化の中の贈答
日本文化でなく福音を中心として考えた時、神との贈答の関係はどのように表現されるべきでしょうか。神からの贈りものに対してどう応答すれば良いのでしょう?
例えば礼拝を見てみると、私は以前は贈答の文化基準に考えて以下のように理解していました。
私たちは神の元に贈り物を持って行くため礼拝する。(またそのため神様に受け入れられる)
私たちは祈りや賛美を持って礼拝の中で神を私たちの心や人生に招待する。(私たちが招待しないと神は私たちとは関わらない)
贈答の文化を基準にすると神に与えられた恩を神にお返しをすることがキリスト教のように見えます。しかし福音の文化の基準では神がお返しの出来ない私たちを無条件に一方的に愛したということを知ります。
では私たちが贈りものを持って神の元へ行くのではなく、神ご自身が私たちを御前に招待するために生ける肉体を持った贈り物として私たちの元へ来てくれたと見方を変えてはどうでしょうか。またイエス・キリストはなだめの供え物として、本来私たちが負債を負っている罪の償いとなられました。それは私たちにお返しをさせるためではなく、何にも代えがたい贈り物であるイエス・キリストを心より喜ぶために。
3. 私たちはイエス・キリストへの信仰によって聖なる神の御前に呼ばれ大胆に賛美できるよう礼拝に招待されている。
すべてを創造され主権を持っている神は、究極的に言えば私たちの助けはいらないのですが、恵みにより神の御心を私たちが知り喜びを持って行動に表して行けます。
もし宣教の結果が出ないことで喜びが失われているなら、もしかしたらクリスチャンにとっての喜びの源は何なのかもう一度考え直す良い機会なのかもしれません。世的な文化や環境が私たちの神との関係、もしくは教会の兄弟姉妹との関係に影響を与えていることはないでしょうか。伝えようとしている福音は宣教者自身にとっての良い知らせであり続けているでしょうか。神が救いようの無い者達をご自身の最も大切な御子を贈りものを私たちに与えて私たちを最初に愛されたということ。この贈りものを受け取り続けることが宣教する上での出発点であるべきであって、私たちの喜びの源であるべきはずです。ある意味において宣教は神様へのお返しのためではなく、神様から受けた愛と赦しの贈り物を他の人々へも分け与える行為なのではないかと思います。まず宣教者にとって福音が福音であり続けるために私たちは日本の文化の中で激流の流れに逆らうように贈答の文化を通しては説明のつかない神の愛に共に信仰を持って留まりましょう。
著者
鈴木 圭
宮城県仙台市生まれ。東日本大震災での被災・災害支援を通してイエス・キリストを信じる。妻と息子・娘の4人家族。妻ジャイラの故郷、シンガポール 在住。2017年よりリデンプションヒルチャーチにて2年間の牧師インターンを経て、現在はEvangelical Theological College in Asia(M.Div)在学中。犬派。