現代社会で信仰に至る道

現代社会に浸透しているのはメディアだけではない。フェイスブックやツイッターなどソーシャルメディアの並外れた成功は、実はもっと大きな潮流が可視化したものだと指摘する声が増えている。フェイスブックはインターネットを広大で不透明なコンテンツから、関係性に意味を見出すネットワーク(インターネット2.0と呼ばれている)へと変化させた。それと同じように人々の人生や信仰への取り組み方も変わってきている。それはもっと社会的になる一方で個人主義は薄れ、何かを信じたり考えたりするより何かに属していることが重視されるようになってきた。

牧師と聴衆 

ここ数年、私は米国内外の学生、牧師、信徒など、さまざまなグループを導いてきました。どれも同じワークショップで、第二サムエル記下11章(「ダビデとバテシバ」の物語)を三つの質問をもとに対話形式で進めていきます。同じ箇所を観察し質問をすることで、この章を理解する上で以下のような三つの側面が私たちにどのような影響を与えるのかを探っていきます。 

「ひとつの方法」

牧師は疲労困憊しています。私自身は毎週教会を導く立場にはありませんが、牧師と頻繁に会う機会があるのでどれだけ先生たちが疲れているかよくわかります。会衆の多くがあちこちに分散していて、中には教会へ戻ってくるのかわからない人もいます。コミュニティーとしてのまとまりがない場合、牧師は何に焦点を絞ればいいのかわからず困惑してしまいます。さらにさまざまな変化に対応するのに果たして自分が適しているかと不安になります。

宣教へ押し出される説教

「自分も福音を伝えたい、何かそういう働きに関わってみたい」と聴衆が積極的に思う。そんな説教があるとしたらいったいどのようなものでしょうか。もし若い説教者が日曜礼拝は単に求道者向けの伝道イベントではなく福音を中心として語る場だと思うなら、この世界で失われている人に届きたい、仕えたいと教会全体が思うようになるためにどんな説教を語ればいいのでしょうか? 具体的な方法を挙げてみましょう。

想像を超える約束

これまでに彼の著書の邦訳を何冊か担当した私は、自分のことをまるで毎日劇場に足繁く通う人のようだと思ってきた。観客として最前列に座っているだけでなく、スタッフとして舞台袖に隠れて彼の稽古や演技を見たり、あるいは舞台裏で音響システムやスポットライトを必死にチェックしたりする。観客が舞台上で起こっていることを観てあんなにも息を呑み、ため息をつき、笑い声をあげ、にやりとし、あるいは涙を流すのはなぜなのだろう? それを理解するために私は文字通り劇場中を走り回ってきた。