「かつて牧会した教会、参加する?しない?」

以上の質問、愚問でしょうか?


そもそも牧師や教会リーダーにとって、教会に行きにくいなんていうことがあるのでしょうか。 


それとも、かつてリーダーだったからこそ出席しにくいということなのでしょうか。


不思議なことに、そういうわけでもなさそうです。しかしかつて教会で熱心に活動していたけれど今はそこから遠のいているという人は結構います。あるいは礼拝に出席してはいても「かつてと同じではない」と言います。


なぜでしょう?

考えてみる価値はありそうです。

そこで牧師やリーダーがかつて自分が働いていた地域教会に出席しにくい理由をいくつか考えてみたいと思います。過去だけでなく、今働いていてもその地域教会に出席することが難しいリーダーたちがいるからです。


多くが通る道

教会に行ってはいるけれどそれほど関わりがない、あるいは現在楽しんで働いている(ならよかったですが!)、そういう人なら、なぜこんな記事が書かれているのか、それ自体不思議でしょう。

しかし一度でも地域教会で、有給無給問わず働いたことがある人なら、私が言おうとしていることはなんとなくわかるのではないでしょうか。

働いたことがある教会に出席しなくなる、それは実はよく見られる現象なのです。インターネットを検索すればすぐにそういう人のコメントが見つかるでしょう。

かつて教会で働いたことがあるのに、その教会にはもう行っていないリーダー。なぜそんなことが起こるのでしょうか。


かつて教会で中心的な働きをしていたけれど、今は日曜に遅く起きて地域教会のあらゆる活動に関わるのを諦めている牧師。


「賛美チーム」「アッシャー」「学生伝道」「お話し」の奉仕の時だけ、出席する人たち。

奉仕から身を引いた途端、教会に出席しなくなる人。

そんなケースを聞くたびに私の心は沈みます。


もちろん地域教会が完璧ではないことはわかります。でも、地域教会には、そこで起こる問題を超える約束があるはずだとも思っています。 まして公同の教会は(キリストが見るように)どの地域教会よりも大きいはずです。世界中の地域教会はどんな形であれ、公同の教会の一部なのです。


正直なところ、このブログで書いていることはどれも私自身も感じたことがあるようなことです。なんとなく、でも、確かに経験したことがあることばかり。頭では、有給だろうと無給だろうと私は生涯地域教会の一部でありたいと思っています。


でも休暇や旅行で地域教会の礼拝に出席する、あるいは自分の牧会する教会に出席するという場合、なんというか違和感を感じるのです。ここに出席していいんだろうか、と。なぜそんな違和感を感じるのでしょう。私の中で何が起こっているのでしょう。

それは、一度でも深く関わったことがある場所に、礼拝者として参加する時に感じる違和感だと思うのです。私の中で起こっていることは、もしかしたら、あなたやあなたが気にかける人にも起こっていることかもしれません。もしそうでないなら、(単純に)「よかった!」と思ってください。

逆に、もしこういう葛藤を感じたことがあるなら、以下にあげる9つの理由があるかもしれません。自分の心に問いかけてみてください。

1)「自分が何者か」ではなく、「自分が何をするか」にアイデンティティーを置いている

結局のところ、あなたは本当は何者なのでしょうか? 伝道師? 音楽家? 礼拝のリーダー? 学生伝道担当者? 長老? アッシャー? グループリーダー? スタッフ?

究極的に言えば、あなたはそのどれでもありません。むしろ救い主に贖われた神の子どもです。


多くの場合、自分が誰なのか、何者なのかは、何をしているかによって定義されます。個人的には、それは日常的な葛藤です。なんだそんなことか、と一蹴する前に、ティム・ケラーが示す以下の簡単なテストをしてみてください。

「あなたにとって仕事(またはミニストリー)が偶像である場合、あなたが成功したらその偶像は思考に入り、失敗したら心に入ってくる。」

まさしくそうです。もしかしたら、自分のアイデンティティーは、自分が考えていることよりも、自分が何をするかに縛られているのかもしれません。


2)全ての中心にいたい自分

アンディー・スタンリー曰く、「マイクを渡されたら、誰でもレディーガガみたいに、歓声が欲しくなる。」それを自分に置き換えて考えたら、実はマイクさえ要らないのではないでしょうか。つまりどんなに小さい会衆であったとしても、その中心にいることにあなた自身が慣れてしまったということはないでしょうか? 何か「自分に」しっくりこないなという感覚は、しっくりしない対象よりも、実は「私自身」を浮き彫りにしている場合が多いのです。


3)ソーセージの作り方を見て、食欲がなくなってしまった人

これも文字通りです。多くの場合、教会は厄介で、欠点だらけ、失望させられ、時には深く傷つくこともあります。暮らしているのは、夢見る天国の反対側です。傷つけられ、問題が解決されない状態はシニシズムを生み出します。そして、自分の未解決の問題をまだ表現できていない、シニカルな元教会参加者がとても多いのです。

自分がその厄介なソーセージ作りに貢献していることに気づくことができたなら、それは成熟の証です。私も問題の一部なのです。そして、教会を放棄したほとんどすべてのリーダーも同様です。

イエスは、私たちが完璧だから人から知られるようになるとは言いませんでした。かわりに私たちにある愛ゆえに知られるようになると言いました。

愛は私の分け前を所有します。愛は許します。愛は私が悪かったと言います。愛は和解します。愛はより良い明日に向かって努力します。

愛とは、誰かの本当の姿を見て、それでも留まるのです。

4)礼拝者よりも評論家に

これは耳が痛い。いったん内部に身を置いたことがあると、「説教を聞く」のと同じくらい、「説教について注意を払う」ようになります。彼はここで何を言いたいんだろう? なぜこのような展開をしたのだろう? 彼のボディーランゲージはどうなんだろう?

奏楽担当者は奏楽や音楽を批判します。受付担当者は受付やグリーティングサービスを批判します。グラフィックデザイナーは他の人のデザインを笑います。そして、主任牧師はすべてを批判します。

何が足りないかって? 

はっきり言って謙虚、従順、恵みがありません。

5).単に礼拝に参加している人に比べたら自分の方がまだまし、いい方だと思っている

これは最悪です。

「やめてくれ」以外に何と言えばいいのかわかりません。本当に。

さて、もうひとつ。あなたは確かに人より賢いかもしれない。あるいはもっと成功しているかもしれない。

でも、パウロの言葉を考えてみてください。

もし、自分は人助けするほど落ちぶれてはいないと思っているなら自分を騙すのはやめましょう。あなたはそれほど重要ではないのですから。

6)どこかで、神との個人的な結びつきが損なわれた

リーダーシップは、神との個人的な歩みから溢れ出てこそ最高の力を発揮します。

教会のリーダーが神との関係に葛藤することは多くありますが(そのうちの5つをここに書きました)、あなたがリーダーとして教会に深く関わっている間に神への信頼を失ったからといって、教会が悪いわけではありません。

主はあなたを愛していますし、弱さのある教会を愛しています。

7)自分は導くだけでなく従う人でもあることを忘れている

もともと私たちは、イエス様に従うことを決意してからミニストリーに参加しました。その姿勢を手放してはいけません。

最高のリーダーとは、実は最高のフォロワーなのです。

導くだけで従うことができないリーダーは、実は優れたリーダーではありません。ましてや、神に仕えるリーダーではありません。

最高のリーダーは、実は最高のフォロワーなのです。


8)自分にはまだ役割があることを忘れている

陳腐な言い方ですが、ゴールは教会に出席することでも、教会に行くことでもありません。あなたが教会なのです。

でも、私たちは離れているときよりも一緒にいるときこそ、教会としてとても強くなると思うのです。

私たちは皆、ライフステージによってはどこかの教会の後列でリハビリをすることができますが、キリストを信じる人は皆、最終的にはそれぞれの地域教会で果たすべき役割があります。たとえそれが自分の好きな役割でなくても、慣れ親しんだ役割でなくてもです。

たとえそれが自分の好きなことや慣れ親しんだことではなくても、参加することは、教会に関わり続けるための最良の方法の一つです。


9)「なぜするか」が「何をどうやってするか」に置き換わってしまった

教会のリーダーシップでは、多くが「何を」「どのように」するかに重点が置かれます。そんな中で私は毎日、教会にとっての「なぜ」を思い出さなければならないと感じています。

というのも…

・神様は良いお方だからです。

・私たちを愛しているからです。

・神様がこれほど愛している世界のために、イエスはご自分の命を捧げられたからです。

・私たちの街には、キリストの愛を知らない人たちがたくさんいるからです。

・私の人生は私だけのものではないからです。

・教会は、そもそもイエスの示したものだからです。

・恵みは最終的にすべてのものを新しくするからです。

「なぜ」は常に「何を」「どうやって」を再活性化させ、新しくするのです。

https://careynieuwhof.com/9-reasons-its-hard-to-attend-a-church-once-youve-been-involved-in-leading-one/より許可を得て翻訳転載。

著者:ケアリー・ニーウホフ

リーダーシップに関するベストセラー作家、講演者、ポッドキャスター、元弁護士、教会開拓者。現在、最も影響力のあるリーダーシップポッドキャストを主催し、彼のオンラインコンテンツは、毎月150万回以上アクセスされています。また、世界中のリーダーを対象に、リーダーシップ、変化、個人の成長について講演を行っています。 https://careynieuwhof.com