祝福の源

私の育った新潟では江戸時代の良寛という禅僧が有名で、アニメのテレビCMがよく流れていました。どんなCMだったか記憶をたどってみると、歳をとった良寛さんが村の子供たちとお寺の前で鞠をつきながら一日中平和に遊んでいると言うもの。今考えてみると、CMとして何を伝えたいのだろうと考えてしまうものでした。

しかし現在、クリスチャンとなった私がそのCMを振り返り、思い浮かぶのは、人は難しいことを話したり、正しい教えを伝えるよりも、一緒に遊ぶこと、一緒に時間を過ごすことの方がもっと強い影響を与えられるのではないかというものでした。

私たち夫婦は2017年4月に韓国人宣教師から引継ぎ、神奈川県の厚木市の厚木希望キリスト教会に赴任しました。開拓して4年目の若い教会は、小学校や中学校から100mほどの場所にあり、さらにすぐ近くには子供連れのお母さんや年配の方々、そして、犬の散歩をする人の集まる広めの公園がありました。

早速、チラシを作って伝道しに行ってみると、教会が公園の目の前にあり、大きな看板があるにも関わらず、教会の存在を知っている人はほとんどいませんでした。「主なる神のからだである教会があるのに、その存在はそこに住んでいる人たちの心の中にはない」。この事実を教会の足元で体験し、悩んで祈りました。「神のからだとして、教会のすぐ近くにいる、まだ主を知らない方々のために、どうしていけばいいのだろう?」

毎朝祈りながら聖書を読む中、創世記12章で主がアブラムに言われた言葉が心に止まりました。

『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める 祝福の源となるように。』

この言葉を通して、神様は主の民を通して祝福を伝える約束がある事を悟りました。改めて宣教は、自分の手の中にある方法ではなく、「主なる神様が御言葉に従う者を祝福した結果、その場所で神様の民を増やしていく」と言う、神様の方法によってなされることを考えさせられました。

主が私や教会を祝福の源としてくださるから「教会がここにあって良かった」、「(クリスチャンである)あなたがここにいてくれて良かった」と地域の人が思ってくれるような、神様からの祝福を注いでいく教会・共同体として存在したいと祈るようになりました。

そこで祝福の源として、教会の存在を知らない多くの人に出会い、近くの人たちと関係を結び、どうやったら喜ばせられるのかを考えた結果、とにかく毎日公園に行くことにしました。

朝早い時間は、犬の散歩や運動をしている年配の方々と挨拶をすることから始め、午後はけん玉や縄跳びやボールを持って公園に行きました。

おもちゃを貸して欲しいと声をかけてくれる小学生やその母親に、隣の教会の牧師で子供遊びのボランティアをしていると自己紹介をし続けました。同じ時間に同じ場所にいることで、そこにいる人たちが徐々に顔見知りになっていき、さらに身の上話までしてくれるように変化していきました。

感謝なことに、後に洗礼を受けるようになったあるお母さんとも出会いました。この方と深く話をするようになったきっかけも公園で6歳の娘さんと遊んだことでした。ある時期は公園に遊びに行くたびに、その方から1時間ほど家族や子育ての悩みを聞きました。そして教会に誘って、その方が来てみると、すでに知り合いだった教会員もいて、さらに深く神様の話が出来て、洗礼まで導かれました。神様の御計画の素晴らしさを賛美します。

またもう一つ、祝福の源としてやるようになったことは、小学生の登校時に横断歩道で交通安全旗振りを始めたことです。もともと教会のある場所が信号のない十字路の前で、赴任した当初、横断歩道を元気に通学する子供たちと道路を通る車との間で危険な場面を見たことがきっかけでした。初めて横断歩道に立った時は緊張しました。夏休みに入る前の1週間だけやって「もし変な目で見られたら、夏休み明けにはやらないようにすれば良い」、「どうせやるなら元気な声で挨拶してやろう」と自分に言い聞かせてやり始めました。

すると公園で遊んだことのある子供たちが物珍しそうに挨拶してくれて、子供たちを送るお父さん、お母さんとも知り合いになりました。

さらに、そこを通る学校の先生から声をかけられ、小学校でやっているコミュニティースクールに入会出来るようになりました。12月には児童の前でクリスマスの紙芝居を発表したり、400冊のクリスマス小冊子を校長先生の許可の下、学校の門の前で配布することも出来ました。今は何人かの小学生がその公園から教会に来るようになり、イエス様を信じると告白する子供たちもいて、神様に感謝しています。

私の任されている厚木という場所は、先祖代々昔からいる人たちと新しく住み始める人たちが混在している街です。街の中心には伝統的な神社やお寺が何箇所もあり、毎朝のようにお参りする方もいて、朝5時になるとお寺の鐘が響いてきます。

そんな社会の中でイエス・キリストの福音を広げる土台は、目の前にいる人と普段の生活を共にしながら、キリストの愛を通して良い信頼関係を結ぶ事です。そして、その関係を通して任された人々に福音を伝え続けていきたいのです。

『あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。』

『悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。』

ローマの信徒への手紙12章14―17節、21節

今日も主がそれぞれの街へ、主の祝福の源として私たちを遣わしている事を信じて、お祈りいたします。


著者

吉村博史

Hirofumi Yoshimura

厚木希望キリスト教会牧師。物理学を学んでいた大学時代に福音を信じ、大学院時代(ナノ科学専攻)に献身を祈り、大学院博士課程を単位満期取得後退学して教団立の神学校JMTS(日本宣教神学院)に入学。2013年に卒業後、母教会(KPCA横浜キリスト教会)での奉仕を経て、2017年4月から厚木希望キリスト教会に赴任。趣味はボードゲームと筋トレ。好きなスポーツは大学時代に経験したアメリカンフットボール。最愛の妻と可愛い長男、長女の4人家族。教会のリンクは→こちらをクリック