失敗だらけの教会開拓

Photo by Julie Fader

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1 虚栄心と名誉欲

「教会開拓、私なら余裕だ!」

 1998年、私は福音自由教会の国内宣教師として沖縄に派遣された。昔の福音自由教会は、日本の教団教派の中で最も教勢が伸びたところの一つである。教会を開拓しても3~4年で次々と自立していった。ただ沖縄は難しいと聞いていた。実際最初の牧師は半年で辞め、そのあと何人かの牧師が派遣されたが、いずれも任期は3年以内、自立も遠かった。

  しかし私は「自分ならすぐに自立出来る、余裕だ」そう考えた。最低でも2~3年、早ければ1年ぐらいで出来るのではないか、ここは新記録を目指してみるか!などと鼻息荒く、意気込んでいた。

 というのも私なりの根拠があったからだ。神学生時代にすでに一つの教会を任されて牧会をしていたという自負、また神学生でありながら北海道から沖縄まで様々なところでメッセージの奉仕をし、救われる人も起こされ、私のメッセージは良い!凄い!自分はできるやつだと固く信じて疑っていなかったからだ。

 もちろん沖縄への重荷はあった。沖縄の状況を思うと、痛みを覚え、なんとかしたいと考えていた。ただ同時に虚栄心と名誉欲のダークサイドが根深いところに混在していた。

 当時、そんな私に気付いていたのであろう。浦和の坂野先生をはじめ何人かの先輩牧師が「焦るな」「慌てるな」とアドバイスをしてくださった。素晴らしい先生方だ。ところが、その時の私はこう思った。

 「この先生方は、何と不信仰なことをいうのであろう」 

 私はこう考えていた。日本の教会で20~30名にも満たない教会、それは牧師が怠けているからだ。働いていない、仕事をしていない、だから伸びないのだ、と。

 やれば出来るし、努力をすれば必ず結果が出る。結果が出ないのは、数字が伴わないのは、そこに至るまでの工夫も努力もしていないからだ。日本の牧師はさぼっている、と。

 こうして薄氷のごとき根拠を岩盤のものと誤解したまま沖縄に行った。

2 開拓の現実

 現実は違った。蒔いても蒔いても、なかなか芽が出ない。思うような、望むような成長も結果も見えない。もっと救われる人が起こされてよいはずだ。献金額が伸びてよいはずだ。成長が遅すぎる。予定と違う。こんなはずでは…と、日を追うごとに焦りが増した。

 きちんとやれば報われるはずだという考えと真逆の現実に苦しんだ。だから、自分はきちんとしていないから、方法が悪いからだ、と考え、様々な改善を試みた。

 それでも思うような成果が出ないと、今度は他のもののせいにした。場所が悪い、建物が悪い、人が悪い、国が悪い、時代が悪い、結果がでないのは周りのせいだと。

 そして行きつくのは再び自分が悪いと、自分を責めて、責めて、責めまくった。ただ、いくら自分を責めても、気が狂いそうになるだけで何の解決も希望も生まれなかった。

 自立最短記録どころか、3年、5年、7年と過ぎていき、国内宣教最長記録を更新した。(結局13年かかった)

 「足を引っ張っているだけ。まさにお荷物。お金の無駄。いつまで支援を続けるつもりだ。あいつはダメだ。もう切れ」と周りの聞こえないはずの声やため息が耳にこだまする。

 私の所属している団体は、年に一度総会があり、そこで礼拝人数や受洗者数、献金額などの報告がなされ、加えて国内宣教師の私は、一年間何をしたのか、全教会に対し、前に立ってレポートしなければならない。それは当時の私にとって拷問となった。

 ある年など隣の無牧教会のほうが教勢を伸ばしていた。「一年間、自分は何をしていたのだろう?無牧の教会の方が伸びている。果たして私の牧師としての働き、存在価値はあるのか?」強烈なボディブローをくらった感覚で痛みを引きずり、なかなか立ち上がれなかった。

 結局のところ、私は他者と比較して自分を評価していたのだった。そこから生まれてくるのは、順調では高慢、逆境では卑屈であった。

3 二つの出会い

3-1 結城晋次先生~福音理解~

 そのような中で、神様はふたつの出会いを通して私を変えてくださった。一つは結城晋次先生。横浜上野町教会という比較的大きな教会を33年牧会された後、沖縄の読谷(よみたん)という田舎に開拓伝道をしに来られた。小さな教会から大きな教会に異動する牧師は山ほどいるが、その逆は決して多くない。ましてや沖縄の片田舎で伝道を始めるというのは稀有だ。

 詳細を省くが、結城先生のご厚意によって月1度、実践的な牧会を学ぶ時をもたせて頂いた。まず驚かされたのは、人格だ。それまで結城先生は厳しい先生と聞いていた。だから厳格な指導を覚悟していた。ところが先生の口からでる言葉は、自身の失敗談だった。

 これまで先生方の盛られた自慢話や苦労話は山ほど聞いてきた。しかし失敗談は多くない。先生は、なぜ失敗したのか、どう取り組み、主が解決へと導いてくださったのか、惜しみなく飾ることなく話してくださった。こんな立派な先生にもそんなことがあるのだと、そして主は本当に真実なお方だと、主の御名を崇めた。

 最も大切なこととして繰り返し、教えてくださったのは「福音理解」だ。それまで福音と言えば、十字架と復活ぐらいで、聖書全体を通して語られている福音を理解せず、いつしか律法主義に陥っていた。

 たとえば「地の塩になりなさい」と教えられてきた。立派な、一流のクリスチャンになること!それが神の御心であると、だから誰よりも奉仕をし、集会に集い、聖書を読み、祈ること、それが神に喜ばれることだと教えられてきた。そして少しでもそれができると傲慢になり、出来ないと、人からそう見られないように隠す偽善者となった。

 しかし結城先生は聖書を開き「譜久島先生、何と書いてあるかね?『あなたがたは地の塩です。』そう書いてあるよね」と、目から鱗だった。罪深いものであるにもかかわらず、すでに神様は恵みによって地の塩と変えてくださっていたのだ。「なりなさい」と「である」。日本語では小さな違いだが、意味するところは天と地ほどの差がある。主は恵みによってすでに「地の塩」としてくださったのだ。だから私たちは祈るし、聖書も読む。祈ることもそうだ。一生懸命祈るから聞かれるのではない、主は聞いてくださる、だから一生懸命祈るのだ。

 このようなことから始まって、いかに自分が律法主義的に聖書を読んでいるか、福音に立って聖書を理解することがどれほど大切か気付かされた。それはまるで、これまで自分を覆っていた大きな鉄の鎧のパーツを一つ一つ外していく作業でもあった。

 3-2 障がいをもった長女

 もう一つ、神様が与えてくださった出会いは長女だ。彼女は知的障害をもっている。それゆえ、やってもやっても、それこそ人一倍努力しても、通常の子には到底追いつけないことが多々ある。

 あるとき、三人娘が外出に備え、それぞれ服を着た。下の二人は、さっと着替えてボタンもできた。しかし、長女はなかなかうまくいかない。時間は過ぎていく。指を思うように動かせないのだ。ところが、そのとき親である私は「あーダメだな、この子は!」と全く思っていなかった。そんな自分の心に神様は気付かせてくださった。下の二人と比べてではなく、長女なりの努力を理解していたのだ。 

 それを通し、まことの神様もそうではないかと、人と比べてではなく、私を私として見てくださっているのではないか、と思わされた。私は、自分や教会を他者と比べて、ダメだと勝手に判断していた。しかし主は変わらず愛してくださっている、主は遅々とした歩みしか出来ていないこのようなものを、それでも見捨てず、見放さず、愛し続けてくださっている。その父なる神様のまなざしに気付かされた。

 人と比べ、思うように伸びない自分と教会を責め、もう神様に愛されていないと考え、だから愛されるため、喜ばれるため、伝道をしようと試み、空回りしていた。

 しかし、そうではなく主は変わらず、愛し続けてくださっていた。だから、それからの私は主に愛されるため、喜ばれるために何かをしよう!ではなく、主は愛してくださっている、喜んでくださっている。「だから」何かをしていこう!と変えられた。 

 それはとても新鮮な甘美な発見で、福音に立った教会形成が、ストンと心の中に落ちた瞬間だった。

 4 これから教会開拓を始める方へ

 さて、最後にこれから教会開拓を始める方に、具体的なこととして3つのことを勧めたい。

4-1 信頼できるコーチをもつこと

 開拓伝道者は、様々な課題に直面する。そして孤独に、自分本位になりやすい。自分の弱さを自覚し、相談できるコーチをもつこと。その重要性は、どれほど声を大にしても伝えきれない。可能であれば、夫婦でコーチのご夫妻に相談できると、より良い。

4-2 人と比較をしないこと

 私たちはつい人と比較して、自他の価値を判断してしまう。しかし、そこに意味はない。むしろ害悪だけだ。数字だけであなたを判断する人もいるだろう。しかし、教会形成は数字に繋がらないことがたくさんある。何より主はすべてをご存じで、正しく評価してくださる。大切なことは人ではなく、主を見上げることだ。

4-3 正しい福音理解をもつこと

 先に記したが、私の聖書理解は律法主義だった。どれほど多くの方々を傷つけてきたことか、申し訳ない思いである。福音に立った教会形成は、恵みに満ち溢れている。教勢は結果であり、どのような規模の教会においても、そこにはキリストが満ち溢れている。

  以上が私の教会開拓における失敗の一部分だ。罪深く、欠けだらけなものなのに、教会がここまで建ったのは、まことに主の御業であり、それ以外のなにものでもない。教会は、主が建ててくださるものだ。だから私たちは諦めず、へこたれず、おごらず、注がれている主の愛の中、歩むことができる。

 末筆であるが、教会をここまで導き、建てあげてくださった主の御名をあがめるとともに、これまで忍耐と愛と励ましをもって私や教会のことを祈り、支えてくださった福音自由教会の仲間に心からの感謝をしつつ、この シティー・トゥー・シティー・ジャパン(City to City Japan)の原稿を閉じることとする。

 

著者

譜久島 一成

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1969年 沖縄生まれ。14歳のときにイエス・キリストを信じる。東京基督神学校(M.Div.)を卒業し、1998年に日本福音自由教会協議会より、国内宣教師として沖縄に遣わされ、教会を開拓。那覇福音自由教会の牧師。妻と3人娘の父。