師匠の訃報を聞いた。
私は一時期、この師匠から日本舞踊を習っていた。正確には賛美舞踊というこの師匠オリジナルの芸事だ。戦前、人形問屋が並ぶ下町から師範学校附属小に通い、歌舞伎や落語など古典芸能に親しみながらも、自由で実験的な発想を持ち合わせるこの師匠から私は多くを教わった。
幼い頃に、花柳流日本舞踊の師範だった叔母から手習いを受け、上背があったから男役もやらされたという。男の踊りを教えるときは袂に滑り込ませていた両腕をやおら振りほどき、べらんめえ調で「いいか、こうやるんだぞ」と啖呵を切る威勢のいい一面もあった。普段はニコニコと笑顔を絶やさず、こちらに失礼があっても全く動じず「いいんですよ」と涼しい顔をしていた。
教会堂で宣教師の子供たちのお稽古を見た、当時小学生の娘がせがむので、連れて行くうちにお母さまもいかがと誘われ、いつのまにか私も弟子入りしていた。
芸の世界では一秒でも早く入門したほうが上。私は娘を姉さん(あねさん)と呼ぶよう指導され苦笑したが、師匠のことも先生ではなく「ししょう、あるいはおっしょさんとお呼びなさい」と教えられた。師匠にとっては教会の牧師が先生だった。
信仰をもったのは四十代になってからと聞いたが、詳しいことはわからない。そもそも拍子も合わない西洋音階の讃美歌で日本舞踊をするという前代未聞の芸事を始めると決心し、承諾してもらおうと家元を訪問したが、もし断られたら自ら名取を返上し、破門されることもやむを得ないと覚悟していたそうだ。自分のスキルと経験に「信仰」を掛け合わせると、キリストを讃える舞踊になる。それは師匠にとってごく自然だったのかもしれない。そのためだったら、それまで築いた肩書きにも執着しない。そのあたりに、ピリピ3:7ー9のパウロの信仰を思わせるものがあった。
ある時、一歩出て後ろを指差し振り返るという振り付けをこう説明された。
「振り返って手の先を見るとき、麻子さんの今までの人生そのものを見るんです。」
そう言われて不覚にも涙が込み上げた。師匠は顔色ひとつ変えずに、その人生のどこを切り取っても神の働きと守りがあったことを淡々と語ってくれたが、動揺した私の頭にはほとんど入ってこない。それは恵みに圧倒される経験だった。さまざまな喜怒哀楽がいっぺんに襲ってきた、不意打ちをくらって思わずよろけた、そんな私がしっかりと抱きとめられた、という感覚だった。知ってか知らずか師匠はそういうことを教えられる人だった。
いつだったか教会の祝い事の席で、師匠が錆朱色に椿がはらりと染め抜かれた着物に黒い帯を締めて登場した。両手を広げ天を仰いでくるりと背中を見せ、また正面を向く。セットも照明もないのにキリストの十字架の場面が浮かび上がる。歌詞と振り付け、時に衣装の色柄まで意味をもたせると教えられていたのに、 出来の悪い弟子はすっかり記憶があいまいで、今では磔にされたキリストを演じた師匠の姿しか思い出せない。
子供たちが成長し、師匠の健康上の理由もあり、お稽古はいつの間にかなくなった。かつて文化会館を借りて会を開いたこともあったこの芸事を継ぐ人は今のところいない。「あなたは振り付け師におなりなさい」とよく言われたが、自然体で舞える感覚派の娘に対して、納得してから動く思考派の私への、師匠なりのせめてもの励ましだったのだと思う。
師匠は人生の半ばを過ぎてから信仰を得て、一つの教会の開拓期から成熟期まで過ごし、古典芸能という自分の背景を生かして、福音の表現に取り組み続けた。日本に福音を文脈化する例を間近に見た私は、人生の後半に入り、師匠のことばと振る舞いをあれこれ思い出しながら、自分なりの文脈化をうながされている。
と同時にすでに認められているような気もする。あれこれ思考する私のどんな失礼にも、代わりに負った傷を見せながら「いいんですよ」と言える私たちの大師匠に気付かされるからだ。
福音の表現、文脈化には自分が思っているよりも豊かでしなやかな幅がある。キリストにある自由にはそういう力と希望があることを、いつか御国で師匠と確かめ合おう、私は今そう思っている。
ここも神の 御国(みくに)なれば 天地(あめつち)御歌(みうた)を 歌い交(か)わし
岩に樹々(きぎ)に 空に海に 妙(たえ)なる御業(みわざ)ぞ 現れたる
ここも神の 御国なれば 鳥の音(ね)、花の香(か) 主をばたたえ
朝日、夕日 栄(は)えに栄えて そよ吹く風さえ 神を語る
ここも神の 御国なれば よこしま暫(しば)しは 時を得(う)とも
主の御旨(みむね)の ややに成りて 天地 遂(つい)には 一つとならん
(讃美歌90番)