牧師にとって、良い幕引きとはどんなものでしょうか。これは私が数年前、競技場で「賞」を得られるように走りなさいというパウロの勧め(1コリ9:24)について思い巡らしていた時に浮かんだ疑問です。牧師がいわゆるキリスト教界の 「殿堂入り」を果たすにはいくつものハードルがあるということでしょうか。改宗者や受洗者の数、経済的な成功などに基づいて与えられるポイントのようなものがあるのでしょうか。
結局私が行き着いたのは、「良い幕引き」とは、最も後悔しない終わりを迎えるという結論でした。それは、どれだけお金を集めたか、どれだけ多くの人が教会に集まったかにかかわらず、長きにわたってキリストご自身が讃えられたということを知って人生の終わりを迎えるということです。
では、自分がうまく走れているか、あるいは正しい方向に向かっているか、どうすればわかるのでしょうか。その姿はあなたが牧師としてどのステージにいるかによって違って見えるかもしれません。牧師として駆け出しであってもベテランであっても、常に自分の状態を確認することは大切です。そしてそのペースを修正するのに遅すぎるということはありません。いつでも取り組めるのです。
まずはステージ1:想像力
若い牧師は、自分の豊かな説教力や先見の明を元に教会の爆発的な成長が起こる将来を夢見ます。これを想像のステージと呼びましょう。
そういった教会開拓者として、あるいは既存の教会を引き継いだ牧師として陥りがちな落とし穴を避けるために注意する点を以下に挙げます。
1. 教会員全員が教会にとってギフトと認識する
他の人より重大な責任を担っているとしても、決して自分を他の人より優れていると思ってはいけません。救い主は1人だけ、あなたではありません。謙虚に仕事に向かわなければ、早晩神に謙虚にさせられることでしょう。
2. 期待は神に。教会はあなたのものではなく主のもの
主があなたを招く場所では、聴衆が数十名、数百名、あるいは数千人という場合があるかもしれません。あるいは、あなたの書いた記事や本がベストセラーになって幅広い読者に読まれることもあれば、週報の片隅に掲載されるにとどまることもあります。どちらの場合でも神の栄光は表されます。
3. 能力ではなく謙虚さを重視したチームづくりを
私はこれに気づいて対処できるようになるまでだいぶかかりました。スタッフと信徒リーダーに謙虚さに欠けると、たとえその人にどんなに能力があってもチームにとって大きな傷を抱える原因になりかねません。もちろん能力や賜物を軽視するわけではないですが、そこに高慢が絡むとミニストリーのあらゆる場面で、眠れない夜、ぎこちないミーティング、張り詰めた空気に長く苦しめられることになります。
4. 小さい問題でもフタをしない
これは私が一番後悔していることの一つです。平和主義者で対立から逃げ出す傾向がある私は、それがかえって仇になることがありました。心配事ひとつひとつをあげ連ねる必要はありませんが、何かおかしい、きな臭いと感じたら、立ち止まってそれが何か確認することです。燃え上がってしまった火を消すことを考えれば、小さいうちに火種を踏み消しておくほうがずっと楽です。私には燃え上がった火でやけどした跡があるほどです。
5. 自分の時間の使い方は早めに決める
牧師の中には1週間のうち日曜の準備のために30~35時間も使う人がいます。一方で病院へのお見舞い、カウンセリング、信徒訓練に使えるように日曜の準備は8~10時間くらいにとどめておく牧師もいます。聖書にはこうした細かい時間の使い方については具体的な指示はありません。牧師としてどのような場所に招かれているのか、あるいは自分の性格などをもとに判断する必要があります。どれだけ仕事をしても全てをこなすことはできません。優先順位をつけなければならないのです。
6. 個人的な会話の記録をつける習慣
こういった記録は後々必要になるかもしれません。私はこれが苦手で後になって苦労しました。記憶は薄れますが、記録は薄れません。
7. リーダーシップチーム、部外者双方とも良好な人間関係を築く
これはミニストリーの状況をどう認識するか、そのバランスをとる上でとても助けになります。教会員は多くの場合「内情に詳しい人たち」とは違う見方をもっています。リーダーシップチームは森は見えるけれど木が見えない、会衆は木は見えるけれど森が見えないということが多々あります。写真撮影するときに鮮明に見える範囲を「被写界深度(DOF)」と言います。適切なDOFのためには両方の目が必要です。片目しかないリーダーにはならないように。
8. 先輩牧師から知恵と方向性についてアドバイスをもらう
同じ道を何度か通ったことがある先輩牧師はどこに外れたマンホールがあるか知っています。彼らの話を聞き、その経験から学んでください。
ステージ2:経験
牧会経験の第2ステージは迷走の時代とも言えます。これまでの経験を振り返り、過去の自分の失敗に目を向けるようになるかもしれません。まさにこれは敵の切り札。あなたの気をそらすことが、何よりも敵の狙いです。この時期、牧師はこの教会で自分は何を間違ったんだろう、なぜ気難しい人ばかりなんだろう、これまでずっと自分は「見せかけ」を演じてきたのだろうか、神からの召命を誤解していたのだろうか、牧師よりエンジニアになればよかったのだろうか、などと迷いだすのです。
こういう時、私はピリピ書を読んで自分の思いをふるいにかけることにしています。牢獄で書いたこの手紙でパウロは読者に喜ぶようにと励ましています。鉄格子の向こうに拘束されているにも関わらず、パウロの心はその状況ではなく神のわざに向けられていました。
こういう時期に牧師が迷走しないための提案をいくつか紹介しましょう。
1. 今までの牧師としての自分の歩みをリストにする
自分がよくできたこと、改善できたことはなんだったか。どこで一番実りが見られたかといった事を振り返ります。私は牧会20周年を迎えたとき、これまでの神の恵みと憐れみに感謝するため、盛大にお祝いの場を持ちました。その時気づいたのは、これまでの牧師としての働きで人の人生が変えられるのを間近に見る機会が与えられてきたことでした。一方でそれは決して「マイク・ミンスターのショータイム」ではなかったことも肝に銘じさせられました。牧会20年の中で関わった数百名の人たちは皆、神のなさる働きの一部でした。
2. 中間軌道修正の必要について考える
長年にわたってあなたを知っている裏表のない友人たちに聞いてみましょう。彼らはあなたの盲点が何か知っています。すると、私がいつもバーンアウト寸前でメッセージは深みが足りないと勇気をもって指摘してくれる愛すべき兄弟たちがいました。彼らは私が疲れ切っていることを知っていました。ミニストリーで疲弊するのは珍しいことではありません。それに20年ほど前、ほんの数ヶ月のうちに1000人近くの教会員が近くのメガチャーチに移っていった時、私は退職届を出したこともありました。まさに牧会経験上のトラウマです。当時私は自分の働きがうまくいっていないと感じていましたが、長老の1人が私の退職届をゴミ箱に放り込みこう言いました。「まだ一緒にすることがある。」
心の奥底で、この道に残ることが示されていると感じながらも私の喪失という痛みは耐え難いものでした。自分が乗っているこの船は転覆するに違いないと思っていたからです。でもそうなりませんでした。そして20年経った今もこうして存在しています。牧会という働きを続ける限り、素直に自分に向き合うことを忘れないように。
3. どんな社会文化的変化がこれまで起こったかを書き出す
道徳、倫理、技術、それぞれの分野での兆候は、世代や宗教的背景によって異なる解釈がされます。牧師なら私たちの社会に息づく文化的な語り口についてよく認識しておくべきです。それを知らないと、時代に取り残され忘れられた存在になってしまうかもしれません。そういった時代の語り口というものは、知らないうちに私たちの間に浸透してくるものなので、気づいたら自分のミニストリーはすっかり時代遅れになっているということもあり得ます。「事を起こす人があり、見守る人があり、何が起こったのかわからない人がいる」という言葉を聞いたことがあります。くれぐれも時代を解釈するという路線に乗り遅れることがないようにしてください。
4. 教会の若い世代と時間を過ごし、その人生観について知る
これは目から鱗が落ちる経験になります。もちろんこれはどんなステージでも取り組めることですが、10年20年の牧会経験の後に若者の様子を探ってみると、若い世代はもはや別の世界に生きていることがわかるはずです。30年前の世代間ギャップは例えて言うなら数センチでした。今はインターネットの出現によってそれが数キロに広がっています。私はよく10代の子たちと話をするのが好きで彼らの学校生活の様子やどんな葛藤があるのかよく聞いていました。意外とざっくばらんに話してくれるものです。
5. 「ミニストリー」と呼ばれるものに本当に情熱があるのか正直に探る
これはかなりきつい作業です。しかし何十年も後悔することになる前に、探っておく必要のあることです。神のことばを教えることや人をケアすることへの熱い思いが心の奥にあるでしょうか? かつてあったのなら、それを再燃させるための助言を求めましょう。敵は私たちの召命への疑いや問いを生み出すのに余念がありません。しかし、もしそうではなく、牧師という働きが単に家族を養うための収入源だと思ったなら、教会のリーダーシップチームに指導を仰ぐ時でしょう。牧師を辞任することは必ずしも人生最悪の出来事ではありません。そもそもミニストリーへの召命がないなら、そこから離れることはあなたの家族にとって最善の道かもしれません。
ステージ3:バックミラー
第3ステージは牧師になって25年、あるいはそれ以上を生き抜いてきた場合です。私はバックミラー期と呼んでいます。天国への想いがさらに強まり、家族、教会、友人によいものを遺したいと願います。あなたの人生の中でも最も実り多い時期かもしれません。
愛する人たちと集まり、過ぎ去った年月の思い出話をし、笑い、知恵や経験に彩られたレンズを通して人生を振り返られるような時期です。サブタイトルからもわかるように、後ろを振り返り思い巡らす時期でもあります。後悔、時にはうつや深い悲しみという危険も伴います。あの時なぜもっとうまく導けなかったのだろうか、どうしてもっとあの人たちと時間を過ごさなかったのだろうか、といった自問が湧き上がる時期です。私は「カウンセリングがもっとうまくできていたら」と心から思いました。問いや疑いはまるで呼吸するために浮かび上がる鯨のように次々と表面化するのです。
もちろん過去の失敗を帳消しにはできません。それが自分の罪、人間の弱さ、あるいは知恵の無さからくるものであっても。人生をよく終わらせるとは悔い改めの日常を生きることです。あるいは「神の前にも人の前にも責められることのない良心」(使徒24:16)を保つことです。これこそ、教会を迫害したことを悔やんでも悔やみきれない自分を「罪人のかしら」(1テモテ1:15)と呼んだ使徒パウロの究極の願いでした。なぜ神は、ダビデを「ご自分の心にかなう人」(1サムエル13:14)とし、ダビデほどの罪は犯さなかったと思われるサウルを拒絶したのでしょうか。詩篇32と51に見られるように、ダビデの悔い改めが心からのものだったからです。一方サウルは悔い改めることなくダビデへの憎悪をつのらせ、むしろ自らの不従順について弁解するほどでした。
チャック・スウィンドルはこう言っています。「正しいことを始めるのに遅すぎるということはない。」知恵のある言葉です。牧師としてあなたが今何歳であろうと(あるいはすでに引退しているとしても)、あなたには修正するための時間があります。責められることのない良心が、人生をよく終わらせるための鍵です。まさに良心の潔白ほど安眠を誘うものはないのです。
繰り返しますが、よく人生を終わらせるとは後悔を最小限にすることです。未解決で癒しが必要な人間関係はありますか。忠実に仕えてきた人たちであなたが感謝を表さなければならない人がいますか。そういったものを放置せず一つ一つ精査すること。それが人生の「良い幕引き」への道筋なのです。
この記事は マイク・ミンターの「Stay the Course: A Pastor's Guide to Navigating the Restless Waters of Ministry」 (B&H, November 2022)からThe Gospel Coalition APRIL 12, 2023に転載されたものを翻訳したものです。