「⾃分も福⾳を伝えたい、何かそういう働きに関わってみたい」と聴衆が積極的に思う。そんな説教があるとしたらいったいどのようなものでしょうか。若い説教者の多くが福音中心に説得されることが大切だと考えているように、もし⽇曜礼拝を単に求道者向けの伝道イベントにするべきではないとしたら、この世界で失われている人々に近づきたい、仕えたいと教会全体が思うようになるためにどんな説教を語ればいいのでしょうか? 具体的な⽅法を挙げてみましょう。
1. 聖書を宣教の場に結びつける
聖書には神のあがないが何のためだったのか、この地上における霊的な使命は何かといった壮⼤な物語が描かれています。ですがメッセージを語る時、または教える時、それを⾒逃してし まうことが多々あります。そういう場合、聴衆にはまずメッセージの内容と神の救いの壮⼤な物語の接点に気づいてもらいます。するとその壮⼤な物語という⽂脈の中で、⾃分の個⼈的な物語を⾒られるようになります。聖書を彼らの宣教活動に現実的に結びつけることで、聴衆はだんだんと「宣教すること」について具体的に⾒たり考えたりするようになります。
2. 聖書の応用を宣教中心にする。
説教の実用的な教えの部分でよくありがちな、「個⼈的に感じる必要」への具体的なステップだけを⽰す代わりに、他者に⽬を向けた実用的な策を⽰しましょう。⼀⼈⼀⼈が語られた聖書箇所を⽇常に適⽤するのは、今の⾃分にとって最⾼の⼈⽣を送るためだけでなく、他者を愛し、他者に仕える、特に職場や学校、近所など、家庭や教会以外で接する⼈々にも視線を向けることが含まれます。
3.偶像と対決する
地域教会が教会の周辺、更に地域全体の⽂化を把握することはとても大切です。どんな偶像が主流なのか知ることができ、そのはっきりと浮かび上がった偶像に対決するための説教ができます。聴衆は、神にまず向けられるはずの私たちの礼拝が妨げられるような誘惑、つまり偶像の存在に気づく必要があるからです。福⾳がどのようにその地域独特の偶像を打ち壊し征服できるか、その過程を説明すると、(a) その場にいる未信者には唯⼀の、そして真実の神の美しさと威厳を⽰すことができます。そして(b) その場にいる信者には、他の宗教と混合させてしまう傾向(シンクレティズム)に気づかせ、悔い改めへと導くことがで きます。そして、(c)礼拝者の⽇常⽣活で宣教する時、周囲の偶像を⾒つけ、それに向き合う訓練にもなります。
4.宣教への反発や神学的な質問に備える
宣教的なメッセージが教会の近隣地域の偶像を批判すると、未信者が霊的、 神学的、道徳的、聖書的、又は個⼈的な疑問を教会にもってくることが予想できます。繰り返しますが、だからと⾔って⽇曜⽇のメッセージが常に未信者へ向けられるべきだという意味ではありません。しかし、メッセージはおもに「求道者に配慮した」ものであるべきです。つまり、礼拝に参加する未信者(⾃分ではクリスチャンだと思っている⼈たちも 含めて!)に配慮し、反対意⾒、質問、又は福⾳を理解する妨げになっているようなことに対応する準備を前もってしておくべきだという意味です。
ティム・ケラーとアンディ・スタンリーはそういう質問に周到な準備をした牧師だと⾔えるでしょう。個⼈的にはケラー師がその実践にはより成功していたと思います。ですが特にスタンリーの聴衆は歴史あるキリスト教⽂化を背景としながら、両者とも聴衆が聖書の真実を当然理解しているだろうとは思い込まず説教しているところに敬意を覚えます。トレビン・ワックスはこう書いています。
この⼆⼈の牧師は違う環境で(アトランタとニューヨーク)、聖書の解釈について異なる (バプテスト系と保守的な⾧⽼派)教会に属している。さらに、異なる原点から活動を始めて、異なる⽅法でそれぞれの⽬的に向かっている。
こういった違いの中でスタンリーとケラーに⼀致することが⼀つあります。それは牧師は聴衆の中にいる未信者を念頭に置くべきだという点です。
スタンリーとケラーの宣教の理想像はかけ離れているかもしれません。しかし両者は礼拝に参加する⼈の中には信仰をもっていない人がいることを常に意識しているのです。
もちろん両者の違いには、例えばスタンリーは「教会に属している⼈」「教会につながっていない⼈」という、よく南部で使われる表現を使い、ケラーは「信者」「未信者」と表現している点があります。
また、スタンリーとケラーは似たような⽅法を⽤いていますが、背景には異なる理論があります。スタンリーの週末礼拝の⽬的は教会に属さない⼈々が喜んで参加するような雰囲気をつくることでした。ケラーは信者、未信者どちらも福⾳が必要なので、宣教と教育は ⼀緒にされるべきだと信じていました。彼はこう書いています。
「集まっただれもがクリスチャンだと思い込んで、信仰の成⾧のためだけの説教をしないことだ。また、宣教について説教するからクリスチャンの成長については語れないとも思わないように。教えながら伝道し、伝道しながら教えよう」
スタンリーかケラーか、あなたはどちらの⽴場に近いでしょうか。どちらにしても、彼らの例からあなたの説教をまだ福音を信じていない人に聞いてもらうにはどうしたらいいのか学べる点はあると思います。
ある意味⾃然な疑問、たとえば偶像にどう向き合えばいいのかという疑問を予想するのは、すでに信じている聴衆の助けにもなります。家庭、職場、学校、インターネットなどの⽇常でこういった質問に遭遇した時どう答えるか考えるようになるからです。⽇曜にあなたがメッセージを語る時、⽬の前の会衆に語っているだけに思えるかもしれませんが、実は第一線に立つ彼らの宣教の準備もしているのです。
5.恵みへの意欲を与える
福⾳は救いの⼒です。当然、宣教活動の原動⼒でもあります。福⾳に応答して押し出される宣教への意欲は、罪悪感から未信者の友達に⼿を差し伸べさせるという⽅法を促すと⼀気に失われます。競い合わせたり、できない⼈に恥をかかせたり、恐怖やコンプレックスの感情に訴えるという⽅法でも確実に福⾳を伝えたいという意欲はそがれるので す。
福⾳が、福⾳そのものが、その適⽤に⼒を与えるということを覚えておいてください。あなたが教会で聴衆に思い出させるのは、常に御霊が背中を押してくれること、神こそが常に救おうとしている⼈をこの世界で探し⾒つけるということ、御国は⼈ではなく神にしか築けないこと、そして⼈の責任は宣教の成功ではなく福⾳に誠実であることだという点で す。 恵みに対する応答は、教会の福⾳宣教をより健全に促します。
もちろん、すべての説教が以上の点を含んでいるわけではないでしょう。むしろ以上述べた点が⼀切取り⼊れられていない説教もあるかもしれません。しかしあなたが教会の⽅向性を変えるようなムーブメントを起こしたい、と思うならメッセージを変える必要があります。宣教を念頭におき、福⾳中⼼のメッセージを定期的に語ることで、教会はもっと宣教に⽬を向けた教会へと育っていくのです。
本記事は2018年4月6日にThe Gospel Coalition HP に掲載された以下を翻訳、転載したものです。https://www.thegospelcoalition.org/article/preaching-people-toward-mission/
5.恵みへの意欲を与える
福音は救いの力です。当然、宣教活動の原動力でもあります。福音に応答して宣教に押し出されるというこの意欲は、罪悪感から未信者の友達に手を差し伸べさせるという方法を促すと一気に失われます。競い合わせたり、できない人に恥をかかせたり、恐怖やコンプレックスの感情に訴えるという方法でも確実に福音を伝えたいという意欲はそがれるのです。
福音が、福音そのものが、その適用に力を与えるということを覚えておいてください。あなたが教会で聴衆に思い出させるのは、常に御霊が背中を押してくれること、神こそが常に救おうとしている人をこの世界で探し見つけるということ、御国は人ではなく神にしか築けないこと、そして人の責任は宣教の成功ではなく福音に誠実であることだという点です。
恵みに対する応答は、教会の福音宣教をより健全に促します。
もちろん、すべての説教が以上の点を含んでいるわけではないでしょう。むしろ以上述べた点が一切取り入れられていない説教もあるかもしれません。しかしあなたが教会の方向性を変えるムーブメントを起こしたいと思うなら、メッセージを変えなければなりません。宣教を念頭におき、福音中心のメッセージを定期的に語ることで、教会はもっと宣教に目を向けた教会へと育っていくのです。
本記事は2018年4月6日にThe Gospel Coalition HP に掲載された以下を翻訳、転載したものです。https://www.thegospelcoalition.org/article/preaching-people-toward-mission/