私たちの間に住んだ神

 

ヨハネ1:14 「ことば(イエス)は人となって、私たちの間に住まわれた。」

キリスト教を知る上で、カギとなる事実は、処女マリアが神の聖霊によって身ごもり、神が人となって、この地上にやってきたという事実です。

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この聖書で、「私たちの間に住んだ。」という住むという言葉はギリシャ語では”tabernacle(幕屋、神殿)” という言葉が使われています。要は、神であり人でるイエスは、私たちの中で幕屋・神殿になったということです。どういう意味があるのでしょうか?

すべての宗教には、神殿、生贄(犠牲)、清めという三つの儀式や概念が必ずあります。神殿や神社を建てる理由は、私たちの間に神様とのギャップ(隔たり)が あると人間は知っているので、その聖なる神様が一旦降臨し、神と人間とが会える接点である場所が必要だと、どの宗教も考えます。そしてその神とのギャップ(神聖さ と不完全さという罪)を埋めるための何かの「犠牲」を払うことにより神に受け入れられることができると考えます。

日本でも神社に行くと、お金を「チャリーン」と賽銭 箱の中に入れます。その賽銭箱は、神が祭られている場所の前にあり、賽銭箱から先のある神の祭られる場所は、一般の人は入れません。何故そのようなことをするのでしょうか?コスト (犠牲)という捧げ物を払うことによって、自分と神との隔たりが一旦なくなり、神に受け入れられ願いを聞いてもらえると考えるからです。家にある仏壇も似たようなものです、ミカンなど何故置く のでしょうか?仏の機嫌を取り、願いを受け入れられるためというような、同じ原理です。

またある神社や寺では、外の煙が立っていて、その煙を自分にまとうことで「清める」という行動もします。日本では、ある場所や家を清めるために、塩を使ったり、様々な儀式があります。旧約聖書が基本のユダヤ教などでは、神殿の外で生贄を殺して焼き、その血を祭司によってかけられ、罪を清められることにより、神殿の中へ入る、一時的に罪が赦されるとされていました。神の子羊、すなわち神が提供してくださった犠牲、イエスが聖なる都とされたエルサレムの外で十字架に 掛かったこともこの理由です。このような三つの儀式は、宗教によってそれぞれやり方は違いますがほとんどすべて同じ概念であり、同じような意味を持ちます。

では、キリスト教にとっては、「イエスが私たちの幕屋・神殿になった」とはどういう意味でしょうか?ある他の宗教の人が、キリスト者に「あなた達の宗教の神殿はどこにありますか?」と聞かれた時、イエスを信じる私たちは、こう答えることができます、「もう神殿や神社にはわざわざ行かなくて良いんです。なぜならイエスが神殿そのもので、私たちの中に住んでいるからです」となります。「犠牲・生贄は?」と聞かれたら、「犠牲や生贄も、イエスが自ら自分の体と命を犠牲にして永遠に払ってくれま した。なのでもう2度と神に受け入れられるために自ら生贄を払う必要はないんです」と答えます。「清めは?」という質問に対して、「イエスの血によって私 たちの罪は赦されたので、私たちは完全に受け入れられ、義とされているので、もう毎回自分を清める必要もなく、全知全能の神様に近づくことができるんです」となります。

私がここで言いたいことは、そしてイエスを信じるすべてのものにとって、「イエスがすべての宗教の終わりであり完成形」だということです。

イエスを信じる者は、もう宗教をしなくて良いと言うことです。私たちの手と努力で、神殿を作り、犠牲を払い、そして一生懸命神に受け入れられるために生きる必要はないということです。もっと踏み込むと、自分の為に生きなくて良いんです。考えて見てください、宗教は究極的には自分の為です。「自分が受け入れられるため」です。神を心底愛する故でもなく、ただ自分の願いを聞き入れられるために、恐れから行動する原理です。でも既に、神が自ら私たちの為に地上に来 て、自ら神と人との間のギャップを埋め、本来赦されるに値しない私たちの罪を赦し、自分の命という犠牲を払い、そしてその血で義としてくれたということを、本当に理解し、体験した時、込み上げてくるのは感謝と神様に対する敬意と愛になるはずです。神様は私たちの「儀式」が欲しいのではなく、「心」が欲しいからです。その後のすべての良い神への行動は、自分の為ではなく、神への愛と感謝からする動機になるはずです。

ある人は、「でも私は何の宗教も持っていないし、窮境もやっていない」と言うかもしれません。申 し訳ないですが、残念な知らせです。実はすべての人間がある意味「宗教」をしているんです。人は誰でも、「これさえあれば自分自身でいられる、自分に価値がある、幸せでいられる、人よりも勝っていられる、または人生が安全だ」という究極的な「何か」を求め、手に入れようとして生きています。実はその「究極的なもの」が神の代わりになり、 それを得ることが私たちの原動力となっています。これは心理学や精神学でも同じように理解されています。その究極的なものを得るために、人間はお金、時間、自分の努力、また様々なものを「犠牲」にして生きています。自分を変える・成長させるという形で「清め」ようとします。

例えば、「あなたにとって仕事やキャリアが究極的なものであれば、働くこと、そこに時間を使い、スキルや能力を注ぎ込みます。ある人は、人間関係や自分自身の健康や人生ですら壊しながら、働きすぎる人もいます。奥さんや子供が家にいても、自ら残業を選びます。何故でしょうか?仕事が与えてくれる何かが、その人にとって究極的な神だからです。「このような仕事をやっていれば私は私でいられる」、「仕事さえあれば将来の心配はない」、「仕事でお金さえあれば心地よさと楽を得て生きられる」と考えます。それらがないと自分を失うと心の奥底では思っているからです。ある人にとっては、それが恋人、パートナー、家族や子供ですら、偽の神となってしまいます。一生懸命そこに時間とお金を注ぎ込みます。それらを失わないように必死になります。もしある男性にとって、それがAKBなら、お金を彼女たちのCDにつぎ込み、必至で握手会に行き、限定特典があると他を蹴落としてまで必死になるでしょう(笑)。同じように、 結局のところ、人は何に対してもそうなってしまいます。

“「ことば(イエス)は人となって、私たちの間に住まわれた。」

— ヨハネ1:14

それらは必ずしも悪い邪悪なものでないですが、究極的な一番大切な存在になってしまった途端に、私たちのすべ てをコントロールし始めるんです。そしてそれを失いかけたり、それから満たされなくなるとストレスとなります、奪われると怒りに変わります、そして完全に 失うと絶望になります。長年働いてきた会社を首になれば絶望し、恋人を失えば自殺願望に駆られる人もいます。子供が成長しても手放せない親がいたり、他人への過剰な愛の表現が故に、虐待し、束縛し、手放さないようにもします。皆宗教をやって生きているんです。自らそれらを元に作りだした「自分教」です。罪の本当の原理は、良いものも究極的な神の代わり (偶像)にしてしまうことです。

イエスが自分の本当の神である時のみ、それらすべての宗教から解放されます。神が永遠に共にいる(イマヌエル)、永遠の神への犠牲、永遠の赦しと清め、そして永遠に壊されることのない神殿があるからです。イエスによって、これらすべての人がやっている「受け入れられるため」、「自分の存在価値を作るため」に生きることから初めて解放されます。すべての宗教から解放されるということです。その時初めて、自分の時間、お金、スキル・能力、またすべてのことにおいて、それらをどの方向性に使うかという自由と選択権を得ることになります。今まで、必死になっていたことから、「そうしなくちゃいけない」ということがなくなったからです。そしてその自由で、初めて、自分以外のニーズのことを考えられます。本当の意味で、人を愛せます。自分を作るために、その人を究極的には必要としないので、その人の為に嫌われようが関係なく、真実を言えるようになります。家族と自分を壊すほど、仕事をしなくて良くなります。自分の子供の為に、その子を自立させ成長させるために手放せます。そして本当の意味で、本当の神の為に人生を生き、人々と世の中の為に生き始められるでしょう。

イエスの誕生、私たちの罪の為に掛かった十字架の死と復活という福音(良い知らせ)を通して、自分の宗教を終わらせてください。そして新しい開放的な生き方を初めて欲しいと思います。クリスチャンであっても、宗教的に(神に必死に認められようと祝福 されようと)生きている人は、イエスの存在と福音の意味を忘れているからそうなってしまっていると思います。もう一度福音に戻りましょう。

 

 
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木村 竜太

ダブルオークロス教会の主任牧師

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木村 竜太

東京、吉祥寺にあるダブルオークロス教会の主任牧師。妻のパトリシアと二人の娘がいる。ツイッターのフォローはこちら