「炎のランナー」という映画は、1924年パリオリンピック陸上選手たちの思いを描き出した大作でした。名場面は、男子100メートル走で金メダルを獲ることになるハロルド・アブラハム選手が100メートルの決勝前、コーチに「銃声が鳴ると、私には私の人生が価値あるものであったことを証明させるための孤独な10秒が与えられる」という告白をした場面です。競技大会に参加するスポーツ選手たちは、このような重圧と戦っていると思います。そこには、結果を残さない限り価値ある人間と見なされない、という思いがあることでしょう。
実はこれはスポーツ選手だけではなく、勉強をする学生、子育てをする母親、そして仕事をしているすべての人に関連する話です。最近日本でも過労死について言及されることが多くありますが、なぜ人は自分を過労死に追い込んでしまうのでしょうか。この課題は決して一般化したり単純に考えることはできませんが、 根本的には「人に認められたい」、「自分の価値を証明したい」という欲が存在するためではないかと思います。
牧師ならだれでも、説教準備のために少なくとも8~10時間を要すると思われます。時には一本の説教のために15~20時間を要することも例外ではないと思います。「良い説教を伝えたい」という気持ちはどのような牧師にもあるでしょう。しかし、「良い説教が自分のリーダーシップや牧師としての価値を示してくれる」と思うなら、説教準備がうまく行かないことはなんと息苦しいことでしょう。そして、それは牧師をも過労死の候補者に仕立て上げていくのです。
聖書は、キリスト者はすでにイエス・キリストにあって義をいただいていると教えています(ローマ3:22、5:19)。言いかえれば、これはイエス・キリストの完璧に生きた人生が私たちのものとして移行されたという意味です。人生最後の日、神は私たちの人生を元に私たちを評価するのではなく、イエス・キリストの人生と十字架のわざを元に私たちを評価されるという意味です。これは、キリスト者を怠け者にする教理でしょうか。いいえ、義とされたという教えは逆に、私たちの仕事において永遠なる安心感を与えてくれるのです。それは、私が100メートル走の決勝で優勝を逃しても、私を最後の日に価値ある者として認めてくれる方がいるという安心感です。神に認められることは、この世のどのような栄誉よりも価値のある永遠に有効なものです。この福音の事実が私たちを長時間労働から救い、人生で本当に重要なものに気づかせてくれることを信じます。