ある母親の偶像

タイトルや題名というものは、読者の気を引くように作られています。しかし、この題名には、気を引かれただけではなく、一体何のことだろうと思ったのではないでしょうか。母親が自分の子どもを偶像化してしまうことは、あり得ると思いますか?ではそれをどのように避けることができるでしょうか?

ティモシー・ケラー牧師の著書「偽りの神々」の中にどうしても子どもが欲しいという願望を持ったアンナという人の話があります。彼女は神さまを信じていました。彼女は結婚し、二人の健康な赤ちゃんを産みました。しかし、彼女は子どもたちに完璧な人生を与えようとするあまり、子育てを楽しむことができなくなりました。彼女の過保護、恐れ、心配、また子どもの人生の些細なことをもコントロールしたいと思ってしまう態度、それらは彼女の家族をとても惨めなものにしました。彼女は、できる限りの努力を尽くして二人の子どもたちを育てましたが、一人は学校で成績が上がらず、深刻な精神的問題の兆候が現れ始め、もう一人は常にイライラしている状態になりました。

ケラー牧師は、アンナが子どもたちに素晴らしい人生を与えたいと必死になっていること自体が、子どもたちの人生を台無しにしてしまっていると結論づけました。彼女が子どもたちを愛し過ぎているということではなく、心の穴を神さまの愛ではなく子どもへの愛で埋めてしまっていることを指摘しました。母親によって神化され、偶像化されてしまっていた子どもたちは、その母親の期待に押し潰されてしまっていたのです。

「偶像」とは、私たちの存在の核の部分にある神さまの形をした穴を埋める、神さま以外のものです。それが何であれ、その重要性を考えるときに、「これがなければ、私の人生には何の意味もない」と思ってしまうもの、それが偶像なのです。

カウンセラーの人たちは、「向いてもいない習い事や活動を無理強いしてはいけません。」、「成績が悪いからと言って感情的に怒ってはいけません。」、「失敗を恐れないで経験できる環境をもっと与えてください。」とアドバイスするでしょう。それらが適切な助言だったとしても、本当に直面すべき問題は、より深いところにあったのです。彼女がその問題を認識して受け入れ、神さまの愛を理解すると、心からこう言えるようになるでしょう。「成功する幸せな子どもたちに育て上げたいという私の願いは、自己中心的なものだった。私自身の存在価値を証明したいだけだった。神さまの愛が分かった私は、不完全な子どもを押し潰すのではなく、受け入れることができる。もし自分の子どもよりも神さまの愛が自分にとってより意味のあるものならば、自分の子どもを自己中心からではなく、本当の意味で愛していくことができる。」と。

アンナの子どもたちに対するコントロールは、彼女自身の人生において神を神と認めていなかった、また同じように子どもたちの人生においても神を神と認めていなかったことの表れでした。子どもたちの人生には、自分が考えているよりもはるかに知恵ある神さまの計画があると想像できなかったのです。失敗も失望もない完璧な子どもたちの人生計画を自分で作り上げていました。しかし、これが、彼女の計画が失敗した最大の理由なのです。

人生の中で苦しみや挫折を経験していない人は、他者の苦しみに共感できず、自分の弱さや限界も知らず、困難に直面する時に耐え抜くことができません。新約聖書のへブル人への手紙に書かれているように、神さまに愛されている人は誰でも懲らしめを受ける、つまり困難を経験するのです(へブル12:1-8)。

アンナは子どもたちからの賞賛を必要としていたので(そのこと自体が彼女を子どもたちから遠ざけていたのですが)彼女が聞きたいと思うまさにその言葉を聞くことはなかったことでしょう。神さまをまず一番に置くこと、子どもたちが失敗することがあっても神さまがいると信頼すること、また、子どもからの愛や成功ではなく、神さまの愛と御心の中に自分の平安と存在価値を見いだすことを、アンナ自身が願うようにならなければなりません。

アブラハムは心から息子の誕生を願っていました。しかし、知恵を持ってイサクを愛することを学ばなければなりませんでした。もし、アブラハムがイサクを自分の人生の希望や喜びにしていたなら、父親としてイサクに対して非常に厳しくなるか、(息子に完璧になってもらう必要があるため)もしくは甘やかし過ぎになっていたでしょう(息子が自分を拒否し離れていくことに耐えられないため)。

もし、イサクの愛や成功だけがアブラハムの唯一のアイデンティティーや喜びの源となっていたなら、イサクが自分を愛さないことや自分に従わないようなことがあると、アブラハムは過剰に怒ったり、不安になったり、がっかりしていたことでしょう。どんな人も、必ず何かのために生きているものです。私たちの想像力、心の土台となっている希望、それらをとらえる何かがあるものです。しかし、聖書は私たちに語っています。私たちが人生に求めるものが、他の何でもなく、神さまご自身を求めるようになることであり、それは聖霊の介入なしにはできません。

「偶像」とは、私たちの存在の核の部分にある神さまの形をした穴を埋める、神さま以外のものです。それが何であれ、その重要性を考えるときに、「これがなければ、私の人生には何の意味もない」と思ってしまうもの、それが偶像なのです。多くの人は自分の人生に陣取ってしまった偶像の力に気づかずに生きています。私たちは、自分の人生のどの部分にも、私たちの心の願いを十分に満たすことができる唯一の方、神さまを一番にすることを求めていきましょう。


 
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グレイトリー デイミアン

City to Cityジャパンのディレクター

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グレイトリー デイミアン

グレース教会開拓ネットワーク東京のディレクター。妻の詩子との間に3人の子どもがいる。ツイッターのフォローはこちら