聖化という旅路

クリスチャンはよく「聖化」について誤解しています。達成すべき目標として聖化を捉えている場合が多いのです。つまりある一定のレベルの聖性に到達した場合にのみ、「聖化」されたとみなすのです。とはいえ、こう考えるのが全く的外れというわけではありません。実際、絶対的な目標は存在します。聖書によると、イエスと実際に顔を合わせて対面するときに私たちはイエスのようにされます。その時には信頼、愛、喜び、謙遜、そしてすべての善い実によって聖化が完成するのです。ヨハネの手紙第一3章は、キリストが再臨される日に私たちもキリストのようになるという希望があるからこそ、私たちは自分を清くするのだと訴えます。

ただ、聖化のプロセスはいつか完了するとはいえ、今はまだ進行中のプロセスです。ですから聖化は到達すべき目的地ではなく、旅路と捉えるべきです。本当に重要なのは、あなたがどこまで来たか、どこまで到達したかではなく、あなたがどこに向かっているかです。

聖化が実際に始まるのは、神があなたを神のものとして宣言したときです。あなたは「選ばれた者、聖なる者、愛されている者」なのです(コロサイ3:12)。しかし、本来あなたがあるべき姿になるためのプロセスは、あなたが罪にではなく神に向かって方向転換したときから始まります。

「聖化は、目的地ではなく、旅なのです。本当に重要なのは、あなたが向かっている方向であり、あなたが旅した距離や到達した場所ではありません。」

これ以上の悪人はいないという人を想像してみてください。暴力的で、不道徳で、酒に酔い、怠惰で、神を冒涜する人間です。そのような悪に捕らわれた人でも男女問わず聖化が始まる瞬間を迎えることがあります。彼らは自分の罪に気づきます。自分の人生に嫌気がさし、何か違うものを求めるようになります。あわれみのある方向を見始めます。キリストに目を向けます。神は彼らを神のものとし、彼らは光の方向に向かって歩き始めるのです。

不道徳が薄れていく

私がクリスチャンになって最初の数ヶ月、聖化のプロセスにおいて忍耐強い神の力を示してくれた友人がいました。30代後半だった彼はクリスチャンになってから10年が経っていましたが、10代前半から20代にかけての彼の生活は道徳的に乱れていました。彼は私にこう言いました。「もし自分の1日の言動を細かく1000回に分けることができるとしたら、そのうちの900回は不道徳だったよ。」でも彼はこうも言いました。

「キリストに目を向けたとき、僕はそこにあわれみを感じてクリスチャンになり聖霊を受け取った。ただ毎日900回もあった不道徳な言動がすぐにゼロになるわけではない。それが700回になり、500回になり、100回になり、その100回が全部目で見て欲情するという瞬間だったこともある。神の恵みが僕のうちにあってそれを喜ぶということを、そして神の愛は忍耐強く粘り強いということは、少しずつわかるようになったんだ」

彼の生活は性的な面で大きな癒しが与えられましたが、それでも完全に清くなった(性的な不道徳から解放された)というよりも、聖化されるための旅を続けていました。彼は妻に対して誠実であり、複数の男性の友人と内面を分かち合いながら、神の希望の光の中を歩むことに徹していました。

私の友人のケースのような性的な面での聖化もありますが、このような変化はどんな罪にも起こります。性的な罪だけでなく、不安、噂話、不平不満、怒りなど、道徳的な欠点が何であれ、神の恵みによってそこに変化は起こり得ます。

ただし、回心したと同時に罪という行為があなたの人生から消えて無くなるわけでも、指を鳴らすだけで抹消されるものでもないことは覚えておいてください。刑務所に収監されるというわかりやすい結果が伴うような、明らかに大きな罪から離れることのほうが実際は簡単かもしれません。むしろ「より小さな」、罪深い衝動から離れるのは一生をかけたプロセスなのです。

キリストの方向に向かって歩み、また悔い改めと信頼をもってキリストのもとへ繰り返し立ち返る聖化の旅路において、罪深い言動は徐々に死んでいきます。どれだけ清くなったかという 聖化の「量」は重要ではありません。 私たちはただ、イエスの方向に向かって歩むように召されているのです。

聖化は競争ではない

ここで注意しなければならないのは、聖化という旅路の速度を人と比較することです。ある人々は深く罪が絡み合い、人生において繰り返し誘惑に直面します。そのようなレベルで罪と深く葛藤している人々は、正しい方向に向かって少しでも前進しているなら励ましを受けるべきです。神のあわれみを求めて立ち返るということで、彼らは聖化のプロセスをすでに始めているからです。

「あなたがどれだけ聖化されたかという”量”は重要ではありません。重要なのは、あなたが歩んでいる方向です。」

神は、神が聖なる方であるように、私たちも聖なる者となるよう招いておられます。これは、考え得る限り最も高い基準です。キリストが示された私たちの性に対するビジョンは簡潔ですが、生涯にわたります。私たちは清さを求めるならキリストのようになることを求めます。罪の行為を悔い改め、洗い清められるためにキリストのもとへ立ち返ります。私たちを守り、変えるキリストの力を求めます。キリストが人生をかけて目指すもの、それは私たちの聖化です。

あなたがどれだけ遠くから歩んできたとしても、最も重要なのはあなたが向かって進んでいる方向なのです。

編集部注:本記事は、デビッド・パウリソン著『すべてを新しくする:性的に傷ついた人々に喜びを回復する』(Making All Things New: Restoring Joy to the Sexually Broken)からの抜粋を編集しクロスウェイとの提携によりThe Gospel Coalitionに掲載された記事(https://www.thegospelcoalition.org/article/play-the-long-game-of-sanctification/)を許可を得て翻訳、転載したものです。

著者:デビッド・パウリソン David Powlison

(1949-2019)

ペンシルベニア大学(博士号)、ウェストミンスター神学校(修士号)。CCEFの常務理事、Journal of Biblical Counselingの上級編集者、The Gospel Coalition(2010-2019)の評議員を務めた。聖書に基づくカウンセリングや信仰と心理学の関係について幅広く執筆しており、著書は”Seeing with New Eyes, Speaking Truth in Love”, “The Biblical Counseling Movement: History and Context”,  “Good and Angry”など多数。妻のナンとの間に3人の子供がいる。