すべての人が参加できる礼拝

私はあまりにも長い間、礼拝はクリスチャンと神との間の、独占的で双方向の関係の間にもたれるものという印象を強く持って生きてきました。私のイメージでは、礼拝とは、目を閉じ、手を上げ、感動に浸り、周りにあるすべてのものを意識せず、ただ私と神だけがそこにいるというものでした。

長年この礼拝観に満足してきたのですが、10年ほど前から違和感を感じるようになりました。私のこの礼拝観は、もともと神が意図された公的な礼拝のあるべき姿を引き下げてしまっているのではないかと思い始めたのです。

そのように思い始めた原因は間違いなくノンクリスチャンの存在です。一般的な礼拝の場で彼らの存在を忘れがちだったし、教会の文化やそこで使われる言葉や表現は彼らにほとんど通じないものでした。

私が住んでいる南アジアでは、クリスチャンはごく少数派で、10億人以上の人口の3%にも満たないのです。それでも少なくともクリスチャンは2,800万人いると言われていて、それは公的礼拝に独自のサブカルチャーを形成するには十分な人数で、残念なことに、それが部外者を締め出してしまいます。

福音によると神は失われた者を探しに来られたのですが、私が参加した多くの礼拝では、むしろ神を見つけるために礼拝の暗号を解読するのは「失われた者」の仕事と捉えられているかのようでした。

一度この違和感に気づいてしまうと、無視することはできませんでした。旧約聖書の一節、ソロモンの神殿奉献の祈りから気づきが与えられ、私は公的礼拝が持つ真に聖書的な本質にようやく目が開かれていきました。


同様に、あなたの民イスラエルの者でない異国人についても、その人があなたの大いなる御名と力強い御手と伸ばされた御腕のゆえに、遠方の地から来てこの宮に向かって祈るなら、あなたご自身が、あなたの御座が据えられた場所である天からこれを聞き、その異国人があなたに向かって願うことをすべて、かなえてください。そうすれば、地上のあらゆる民が御名を知り、あなたの民イスラエルと同じようにあなたを恐れるようになり、私が建てたこの宮で御名が呼び求められなければならないことを知るでしょう。

第2歴代誌6:32-33


ソロモンは、選ばれたイスラエルのための思慮深い祈りの最中に、思いがけず、神の恵みの扉を他のすべての国々に大きく開きました。ソロモンは、自分が建てた神殿でのイスラエルの公的礼拝に、神を求める外国人が来ることを期待し、計画しています。もし彼らが来たら、ではありません。彼らが来た時は、なのです。

まさに文脈化され宣教的な公的礼拝のための健全な神学的根拠です。

この箇所に目が開かれてから、私は公的礼拝を三角形の図として見るようになりました。つまり神がいて、クリスチャンが礼拝する、その過程でノンクリスチャンも神への礼拝に招くのです。

ありがたいことに神様は私が教会開拓を始める前にこの気づきを与えてくださいました。ソロモンの祈りは、人口約2,300万人の都市で、なぜ私たちが専門職についている人たちを対象に礼拝を文脈化したか、その神学的基礎となりました。教会開拓を始めて3年、私たちは今も模索しています。

楽な道のりはではありません。何回も失敗し、さまざまな困難にも遭遇してきました。この先もまだ長い道のりがあることは、誰よりも先に認めます。でも私たちがだんだんとわかってきた礼拝の原則をいくつか紹介したいと思います。

深い必要と浅い必要

私たちは皆、欠乏しています。結局のところ、私たちの最も深い必要は、救い主を必要としていることでしょう。私たちは恵みによって救われた罪人です。それこそが本当の必要と呼べるものです。

しかし他にも必要があります。私たちが住んでいる都市は成果主義中心です。この街では自分の価値は、例えば最近成功した取引、直近四半期の売上、直近の業績でしか認められません。日々、何度も自分自身を証明しなければなりません。そして他にも新しい恋愛、もっと恵まれた収入が必要だと思うようになります。このような文化は私たちの中に必要性を生み出しています。

それらはすべて浅い必要性からきています。私たちのような忙しくにぎやかで競争の激しい都市に住んでいると、自分の浅い必要性に目が向きやすく、本当の必要性に気づきにくくなります。私たちの教会では、このような浅い必要性が礼拝を自己中心的にしてしまうこともあります。私たちが自分の浅い必要性を満たすためだけに神を求めるとき、私たちは礼拝を神との排他的で双方向の関係として扱い、自分が望むものを得るために必死に(そして利己的に)神を求めるようになります。そういう礼拝では神ご自身が最終的な礼拝対象ではないのです。

一方、私たちが会衆に真の必要性、すなわち救い主の必要性を見いだすよう教え導く時、真に心からの悔い改めが礼拝を席巻し始めます。それは公的な礼拝を文脈化させ、ノンクリスチャンにとって何よりも魅力的なものにします。どういうことでしょう。

大都市では、クリスチャンとノンクリスチャンの悔い改めが驚くほど似ています。たとえば、私たちはどちらも仕事という偶像礼拝と、キャリアにまつわるプライドや恐れと闘っています。そのため、ノンクリスチャンがクリスチャンの悔い改めに共感するのは、とても簡単なことです。

ノンクリスチャンが苦しんでいるのと同じことを、私たちが公に心から悔い改めるとき、私たちは彼らに福音への道を開くのです。私たちの礼拝と集会が、私たちの文化に見られる偶像礼拝を悔い改める。それが顕著だと、福音(と私たちの礼拝)を文脈化することは自然で自発的なものとなります。

文脈化と聖霊

私たちの最大の失敗のひとつは、ノンクリスチャンを信仰に導くという私たちの役割を過大評価し、神の役割を過小評価していたことでした。いつしか私は、文脈化を聖霊の働きの代わりとして機能的に捉えるようになっていました。

確かに、私たちは福音を単純化し、説明し、文脈化しなければなりません。それは私たちの喜びであり、特権であり、義務です。しかし最終的には、人々をイエスへの信仰へと導くのは、やはり聖霊なのです(福音を文脈化する技術と知恵を与えてくださるのも聖霊であるのと同じように)。


それを認識したなら、私たちにできることはただ祈ることです。祈りとは、私たちが神に依存している証拠です。謙虚で大胆、忍耐強く根気強い祈りは、文脈に沿った礼拝を巧みに築き上げていくことと連携していなければならないのです。


忠実な祈りと文脈化された礼拝に助けられ、最初はキリスト教に懐疑的な人や馴染のない人もイエスの驚くべき物語を発見する旅に一歩踏み出すことができます。そのように、彼らに礼拝の扉を開く時、私たちは彼らが最初の一歩を踏み出すのを助けることになるのです。

著者:アナン・マハデヴァン

ビジネス・ジャーナリスト、教会開拓者、作家。初の著書『Grace of God and Flaws of Men』では、アブラハム、イサク、ヤコブの多くの失敗を通して福音を探求している。.