CTCJで「シティ・カタリスト」という言葉を初めて聞いた時、その意味が分からず、辞書で調べたほどでした。カタリストという言葉には「触媒」とか「変化・反応を促進させるもの」といった意味があります。それでなんとなく「シティ・カタリスト」のイメージはつかめてきましたが、具体的にはどんなことをするのか、その役割が分かりません。色々と考えていくうちに、同じ都市で活動している牧師たちと交流し教派を超えて協力し合うことかなと思いました。それぞれ神学的な理解の違いがあるので一緒に礼拝をするのは難しいかもしれません。でも福音を伝えるために一緒にイベントを開催したり、互いの問題や課題などを分かち合って、祈りあうことはできるんじゃないか、などと考えました。けれども、手始めに何をしたらよいか考えあぐねて、なかなか行動に移せませんでした。
それぞれの教会や牧師たちは、何を望んで一生懸命働いているのでしょうか。それは一人でも多くの人が福音を知り、キリストを救い主として信じ受け入れることです。それは疑いようのない事実だと思います。でも例えばそれは時に、どこに魚がいるのか、どんなエサが必要なのか、分からないまま一本釣りをしているようなものなのかもしれません。実際、クリスチャン人口が極端に少ない日本では、普通に生活している人たちが福音に触れる機会はほとんどありません。一部の人を除けば、聖書の言葉を目にする機会も、クリスチャンと話す機会も、教会に足を踏み入れる機会も、皆無と言ってもいいかもしれません。実際、私が33歳の時にクリスチャンになったのは、生活の中心にいつも音楽があったミュージシャンとして、ブラックゴスペルに興味をもったのがきっかけでした。
つまり、ほとんどの日本人は簡単に福音を受け入れる環境にはいないのです。日本でクリスチャンは1%前後と言われています。それ以外の99%の魚たちは私たちのエサには見向きもしません。福音を避けて通ります。そういう環境にはいないかからです。そこで思うのが、海の環境を変えてみたらどうだろうか?ということです。
そのために必要なのが「シティワイド・コラボレーション=都市単位での協力体制」です。教派を超えて教会同士が協力し、可能ならばNPOの団体とも協力する。もちろんそれぞれの動機は違います。私たちのように福音を動機とする団体もあればそうではない団体もあるでしょう。でも街が安全で健全な場所になって欲しいという思いは同じです。そのための活動に積極的に参加し、教会が一つになって様々なイベントを行う。そうすれば少しずつ環境が変わってくるのではないでしょうか? 環境に合わないエサをぶら下げて待っているのではなく、たくさんの魚がその海で必要とする食べ物を与え、健康に生きていける自然環境にしていくことはもしかしたら可能なのではないでしょうか? クリスチャンが増えれば街が変わる、というより、街が変わればクリスチャンが増える、という発想も必要なのかもしれません。
私の想いは、一人でも多くの「失われた人」が救われ、教会に結びつき、新たに「失われた人を見つけ福音を指し示す人」になることです。私にとってその目的以上に大事な「手段」などはありません。その思いを近隣の教会の牧師たちに伝え、互いに祈り、励まし合い、できるだけ多くの人や団体などと一緒に、街を安全で健全なコミュニティに変えていく。それが「シティ・カタリスト」の定義ではないかと考えています。