福音中心的な文脈化(1)

『福音をどう日本人、また日本文化に適応させられるだろう? 福音を日本人に分かりやく理解できるよう伝えるには、どうしたらいいのだろう?』

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 このテーマは、25年前、私がイギリスでクリスチャンになった時からずっと考えていたことでした。

 日本の文化が嫌いで日本から逃げていた自分が、キリストに変えられ、自分の日本人としてのアイデンティティーを受け入れ、母国を愛し始めた第一歩でもありました。その時から、『文脈化』を考え、自分の教会ミニストリーや説教において常に文脈化してきたと思っていました。

 しかし、8年前にCity to City を通して、福音中心性というあり方や世界観を学び始め、福音の理解が自分の中で刷新され明確になっていくとともに、自分の信じていた文脈化の定義や理解が間違っていたことに気づきました。

 もともと様々な国の文化やサブカルチャーが大好きだった私は、自分は文化に精通していると自負していました。その自信過剰さから、「福音を文脈化する」ことを、こう考えていました。

①単に聖書の原則を、文化や社会や個人レベルの人生のトレンドを使い、福音を分かりやすく説明し適応するだけでいい。

②その文化や社会にある聖書の原則や真理に共通することを見つければいい。

 しかし福音の刷新を経験する中でまず自分が思い知らされたことは、私自身が『正しい福音』を理解していなかったことでした。その気付きから、パート1として文脈化の要素と基本をお伝えしたいと思います。

物語としての福音

 私たちCity to Cityが信じる福音の理解で重要なのは、聖書で描かれる福音を大きな一つのストーリーとしての理解することです。

 福音の物語を大まかなチャプターに分けると、神学的には創造、堕落、贖い、刷新、そして完成という5つのステージに分けることができます。この観点から私たちの文化や世界を見ると、私たちの住むこの社会や文化は、神の存在やイメージを基に、神の栄光と基準(創造)を表すべきものだとわかります。しかし同時にわかるのは、それは壊れている(堕落している)存在でもあるということです。

 その神の国という基準から離れ、壊れている世界に、イエスは生まれ、私たちの本来生きるべきだったけれど生きられなかった人生と義を生きました。そして私たちの罪の赦しと神との関係の修復のために十字架で命を捧げ、その死からも復活しました。そのイエスを通して私たちは神の御心に沿った、イエスのように神のイメージを表す人生を生き、この世の光としてもその希望を反映します。(刷新)そして最後にイエスが再び戻るとき、神の計画と神の国が完全に完成されるのです。この物語は、究極的なハッピーエンドを迎えます。

 私自身が福音の刷新を経験する中で、文脈化について最初に気付かされたことがあります。それは私が住んでいる文化に福音を適応する前に、まず自分自身に福音の文脈化ができていないということでした。自分の中にある『自分の文化(価値観‧アイデンティティー)』にすら、福音を適応できていなかったのです。


自分への福音の文脈化

 どういうことでしょう? つまり、自分がイエスにある神のイメージによって自分のアイデンティティーを形成する(創造)のではなく、自分勝手な神のイメージによる思い込みで自分を形成していた(堕落)ことに気づいたのです。

 母子家庭で育った自分は、父親のように認めてくれる存在を必死に探して生きていました。忠実な牧師として、主任牧師に言われた事をこなし結果を出していれば、そしてリーダーたちや教会に従順であれば、自分のミニストリーでしっかりパフォーマンスできていれば、自分は認められ、正しいクリスチャンという存在を保てると思って生きていました。それはイエスの福音、十字架と復活により、ただ恵みを通して与えられた自己像ではありませんでした。自分の「行い・働き」からくる自己形成でした。

 ですから当然のように、ある時その脆い自分の土台が崩れ、自分のアイデンティティも一瞬にして崩れました。自分が頼っていた牧師や認めてくれた人をがっかりさせてしまった、また同時に裏切られ見捨てられた、拒絶されたと感じました。そんな経験の中、今までの自信があっさりとなくなっていった感覚を今でも覚えています。同時にそれを取り戻さなくてはという恐れにも駆られました。今思えば、神はそれらの偽物の自分を意図的に取り去る形で、私に福音の本当のあり方を示そうとしていたのでしょう。謙遜にさせられ、悔い改める過程はとても辛く痛い経験でした。

 またその後、新たな教会開拓のビジョンや使命をに対しても、同じ過ちに向かう誘惑がありました。しかし福音を見直す時間と機会、またそうするよう励ましてくれるクリスチャンの友が与えられました。自分の中で刷新されていった福音理解を通して、新たな自分の見方、そして人の目や意見に左右されない、イエスにあって揺るがない自分を見つける旅が始まりました(贖い)。自分がどのように壊れているのか、自分がどのようなトラウマや苦い経験をしてきたか、頭で福音を信じながらもどのように神なしで自分を救おうとしてきたかが見え始めました。

 心の奥底の根本的な部分では、福音を理解しきれず信じきれていなかったのです。この気づきは実に神の恵みによります。それらの『自分の物語』の部分に福音の物語を照らし合わせ、福音によって壊れた自分のストーリーを贖い、修復していただくことで、本当の神の働きによる変化が起き始めました(刷新)。

 それだけではなく、壊れてはいるもののイエスにあって『ある意味』既に完成している、そして完成されていくその自分を、どのように神が用いてくださるのかも、徐々に明確にされていきました(完成へ)。弱さを受け入れ、神の強さに日々頼っていく人生の始まりでした。以上が大まかではありますが、私自身への福音の『文脈化』のプロセスの一部です。一部ではありますが、大きなステップでした。

 皆さんはどうでしょうか? 神があなたに描いてくださっている本来の『創造』に戻るために、自分の『堕落』に気づいているでしょうか? それに向き合い、逃げずに受け入れ悔い改めているでしょうか? そしてそこにイエスの福音にある『贖い』をしっかり見出していますか? 本当の意味で自分は『新しい創造』として刷新され始めていますでしょうか? 恵みにあって希望をもち、『完成』というビジョンとゴールにイエスと一緒に歩んでいますか?

 これら福音の要素が腑に落ちていないとどうなるでしょう。自分の周りの文化や社会への健全な福音の『文脈化』が難しいでしょう。自信と大胆さをもって『文化』の壊れた部分を指摘できないでしょう。福音を拒否されるのではと恐れる自分が解決されずにまだ残っているかもしれません。同時に彼らの壊れた部分を愛をもって受け入れ、忍耐しつつ文化を刷新していくことも難しくなるでしょう。

 なぜでしょう? 自分の壊れている部分が見えないということは、自分を客観的に見ることができていないということです。同じように、歪んだ偏った見方で文化を見てしまうのです。福音にある謙虚さと同時に、福音にある確信と自信をもって文化に接することはできないでしょう。まず自分自身がその文化に関わる者として、福音によって変えられるべき存在です。そう考えることが文脈化の第一歩ではないでしょうか。

 今回はパート1として福音中心的な文脈化を紹介しました。まず皆さん自身が、個人的に『福音的文脈化』を経験できることを願っています。

 次回は、この物語としての福音をどのように私達の文化‧社会に適応できるかを一緒に見ていきたいと思います。


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著者 木村竜太

Ryuta Kimura

イギリスのリージェンツ神学学校卒業後、10年以上に渡ってイギリス、スイス、そして日本の教会で様々な牧師の役割を経験。6年前、東京吉祥寺にダブルオークロスチャーチを開拓し、今日まで主任牧師を務める。家族はスイス人の妻パトリツィア、娘2人 (アイアーナメイ、しおん)。東京生まれ、千葉、イギリス、スイスに住み、現在は高円寺。

学歴: リージェンツ神学学校卒業 / OM トレーニングセンター 終了 / シティトゥシティトゥ 集中トレーニング、トレーナー、説教マスタークラス終了。

木村 竜太

東京、吉祥寺にあるダブルオークロス教会の主任牧師。妻のパトリシアと二人の娘がいる。ツイッターのフォローはこちら