キリストに身を委ねた日以来、神に仕えたいという思いは私の内で確かだった。しかしまさか自分が牧師になるとは思ってもみなかった。いや、頭をよぎった事はあったが、私には向いていないとその思いを打ち消した。牧師の役目は堅苦しく不自由に思えて、正直自分にはピンとこなかった。教会にはただ牧師という肩書きで示される存在よりも説得力のあるキリストの証人が必要だ、そう思っていた。
その代わり私は物書きになることを夢見た。それはいかにも心地よく尊厳もあり自分にとって好ましい感じがした。カフェに座り、書き終えたばかりの本をもとに神の国について仲間の哲学者と議論する。それこそ魅力的だった。それにひきかえ牧師という働きに魅力を感じることは一つもなかった。
ただ物書きとして神に仕えるにも神学教育は必要だと思ったので神学修士号を取ることにはしたが、専門はあくまでも聖書学だ。学者の道を進むことになるし、牧師になるつもりがないなら牧会学を専門にするなど無意味だ。
神学校の1年目、自分は無知だと感じた。2年目、全てに疑問をもった。最終学年で力に酔った。全てを理解したと思っていたが、知ることの無力さと、愛という贖いの力がわかるまでにはその後数年かかった。自分自身の経験から言って、神学校を卒業した者はこの霊的な酔いから醒めるまで(あるいは一生酔ったままかもしれないが)、誰もがよい監督のもとでしばらく隔離される必要があるのではないかと思う。私はいつも教会に対して葛藤を覚えていたものの、同時に究極的にはその存在意義を信じていた。イエスが教会を自分の「からだ」と呼んだのは、教会に最も崇高な尊厳を与えたからだ。教会について同意できない時でさえ、私はそこから去ることはできない。それはキリストの「からだ」だから。教会を去るとは、キリストの御霊が最も具現化された場所から離れることだ。イエスご自身の一部から離れることだ。しかし、私はその「からだ」が健康ではなく、御霊が住んでいるはずなのに、その本当の姿が反映されていないところだとも感じていた。
教会があちこちに散らばるために、集まる教会を去る者がいる。彼らは教会から外に福音を持ち出す。逆に集まることに固執し散らばるのを拒む者もいる。集まる教会、散る教会、私はどちらにも重みを感じた。教会は成長しなければならないと思いを巡らせていた。栄養失調の子供を弱っているからと言って捨てて死なせるのではなく、忍耐強く愛情をもって栄養を与え、健康を取り戻させる必要がある。教会はキリストの「からだ」、まさしく彼の「からだ」だからである。
神学校から戻ってはきたが、神に仕えることへの私の漠然とした願望はたいして明確にはならなかった。しかし私にとって他にも多くの祝福をもたらしてくれた結婚という経験が、それをはっきりさせてくれた。妻と私はどちらも宣教に関わる家庭の出身で、何か新しい事を始めることに積極的な環境で育った。私たちは当時大きな教会に属していて、新しい教会を始めることに魅力を感じてはいたが、どうしたらいいのかわからなかったし、自分たちだけでは進めたくなかった。
それまでいろいろな牧師を見てきた。華々しい舞台から落ちたセレブ牧師、利益のために神の言葉を売り歩く不適格な牧師、疑うことを知らない人々に歪んだ福音を伝える偽牧師、平気で性犯罪者のように歩き回る危険な牧師、そして命を厭わないで実りある奉仕を終えた伝説の牧師。
私にとって牧師の一生は、人間の堕落という暗い沼をゆっくり進み、無傷でいることなどほとんどない、といったイメージだった。計画的なサポートがないなら自分たちだけでこの恐ろしい暗闇に入って行くつもりはなかった。
私たちは教会開拓の計画は保留にして、神の指示を待った。しかし答えはなかった。数年経ちいつの間にかそのことについて話すのをやめてしまっていた。私は達成されない漠然とした望みをもったまま、大きな教会での奉仕に自分を捧げるつもりだった。私はただ「主よ、ここに一生いるべきなら、私はそれで満足です」と祈った。
当時、私は一冊目の本を書いていた。執筆し終えた時、友人がシティ・トゥ・シティの関係者を紹介してくれた。その時は全く知らなかったが、それは私を教会開拓にリクルートするためのものだった。すでに興味がなくなっていた私は教会開拓をしたいか聞かれた時、勇気を出して答えた。「いいえ、したくないです」
そして続けた。「私は牧師に向いていません。羊飼いのようなリーダーといったタイプに当てはまるか自信がないんです」。感情より頭脳で行動するタイプだと言いたかったのだ。羊飼いのような牧師という私自身のイメージはかなり偏っていた。
このリクルーターは優しく私の反対を押しのけた。彼は型にはまった堅苦しい牧師タイプを探しているのではないことを強調した。私は目を見開いた。
彼は、こうでなくてはいけないという先入観にとらわれることなく、賜物、能力、神の招きをもとに自由に活動する牧師としての将来像を描いてみせた。
それを聞いて私は自分の描く牧師や教会の物語を実現できると興奮した。それは私が新しい物語を書きたかったからではない。私がしたかったこと、それは単純に、神の人々を喜んで導く羊飼いの、昔から受け継がれた美しい物語に戻ることだった。その羊飼いはごまかしで利益を求めず、意欲的に奉仕し、手本になり、独裁者ではなく、喜びを叫び、すべての羊飼いを治める方が戻ってくる日を待つ。
この会話が「モーセと燃える芝」のようになっていることに気付かず「でも私は羊飼いではないんです。どちらかといえば思想家、指導者タイプで」と私は続けた。
「それでいいんです」。リクルーターは、初めは思想家だった有名な牧師が、よい羊飼いに囲まれていた例を挙げ、「あなたの弱みを補うスタッフをおけばいい」と言ってくれた。
私の中のモーセは熱を帯びつつあった。そのリクルーター自身、2つの教会を開拓していた。開拓当初、共感したり同情したりするのが苦手だった彼は、神に助けられ、そういった弱みが強みに変わっていったそうだ。
彼との会話が終わった時、私は深い感謝の気持ちで満たされていた。私は教会開拓への思いを長いこと抑え込んできたが、私の誠実な羊飼いは忘れてはいなかったのだ。妻と話してみた。私たちはティモシー・ケラー先生を知っていた。リディーマー長老教会も知っていた。そして今シティ・トゥ・シティも知った。どれも信頼できる名前で、安心感があった。
両親とも話してみた。彼らはこの日を待ち望んでいたので話は早かった。むしろいつ始めるのかとだけ質問された。奉仕教会の牧師は初めはためらっていたが最終的に賛成し、ともに開拓に連れて行きたい人々さえも送り出してくれた。
誰もが教会開拓は難しいがやり甲斐のある仕事だと言っていた。しかしそれがどれくらい難しく、どれほどやり甲斐のある仕事かは誰も言わなかった。一人の友達を除いては皆励ましてくれた。彼は私に開拓に必要な精神的安定があるのかどうか心配していた。これは私の気分を害したが教会開拓の適正審査でも同じ事が疑問視された。しかし私はそれを見落とした。
開拓を始めて一年もたたないうちに、私が情緒的に未熟なことがはっきりした。結婚生活と教会開拓のストレスをうまく解消できなくなり、助けが必要になった。妻と私が助言を求めた時、 シティ・トゥ・シティ はすぐ対応してくれた。
自分たちだけで開拓を行うことに恐怖を感じるのは当然だ。誰かいい知恵をもっている人が現れるのを待つことも一つの方法だろう。シティ・トゥ・シティはコーチング、カウンセリング、指導、そして霊的な友情関係を続けて、私の精神衛生と教会開拓の両方に投資してくれた。これは神の豊かな恵みのはっきりした証だった。その恵みが私たちを変えた。
シティ・トゥ・シティ のトレーニングでこう言った人がいた。「神は教会開拓を使って開拓者を訓練する」。これこそ、教会開拓で一番難しく、同時にやり甲斐を感じるプロセスだった。教会を変えるのではなく、私を変えるために神は教会を用いた。教会開拓は、神の恵みの手段だった。この経験は私の心を育て、その深みと幅を広げ、結婚生活を贖い取り戻してくれた。その間、着実に教会の主ご自身が教会を築き上げていた。
新しい物語が書かれていく中、その本当の作者は神である。その作品こそ最も偉大な贖いの物語である。教会開拓は、私の人生において描かれた神による刷新の物語の一章にすぎないし、私にとってこれ以上素晴らしい召命はない。「覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていく」(コリント人への第二の手紙 3:18)。これが私の最大の希望であり喜びである。
(Redeemer city to city HP2022年3月29日の記事、Confirming My Call to Plant a Churchを翻訳しました。)