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私が「センターチャーチ、福音中心ミニストリーの実現のために(仮題)」を執筆したのには一つの理由があります。それは、教理と実践(ミニストリー)の関係について一般的な誤解があるように思ったからです。
具体的に言えば、教理的土台を共有する教会が実際には全く違う形でミニストリーを展開しているという、昨今よく見られる不思議な現象です。例えばここにウェストミンスター信仰告白に心から賛同する長老教会が二つあるとします。片方は現代的な音楽を取り入れ、礼拝様式らしきものはほぼ見られません。信徒リーダーが牧師と同じように集会やミニストリーを導き、最新の市場調査やメディア戦略を採用します。
もう片方はほほ真逆で、クラシック音楽や伝統的礼拝様式を取り入れ、按手を受けた聖職者の働きを強調します。また現代的スタイルの教会を、改革派信仰あるいは福音にさえ背を向けるものだと強く批判します。
この二つの教会は同じ教理的土台に立つのに全く違うミニストリーを実践しています。なぜでしょうか。そして、それは悪いことなのでしょうか。簡単に答えが出せるような問題ではありません。よくみられる誤解を二つ挙げてみましょう。
まず一つ目の誤解は、教理的土台に十分に立っていないように見える一つ目の教会が「現代に流された」という思い込みです。伝統的な立場から見ると、そういう教会は「表向きには信仰告白に立っているが、心底その告白を信じているわけではない」と思われがちなのです。そこには、基本的な教理土台(この例ではウェストミンスター信仰基準)が教会の宣教方法やスタイルにわかりやすく表されていない点が問題だという意識があります。そのような意識に対して、現代的な教会のほうは、ミニストリーのここにもあそこにも生かされていると主張することもできるかもしれません。しかし信仰告白から、言外の意味や暗示の存在を証明することは簡単ではありません。ただし、外見が現代的だという理由だけで、教理に忠実でない教会だと短絡的に決めつけることはできません。
逆に第二の誤解は、伝統を重んじている教会は教理に忠実(見方によってはあまりにも忠実すぎる)だと結論づけることで、それも早急な判断です。現代的な教会からは「教理や神学に凝り固まり過ぎている。後ろ向きで了見が狭い」と捉えられがちです。
そのような中で、「現代文化に本当の意味でアピールできる」ミニストリーのためにと、法的義認、無謬性、神の聖性と怒り、按手を受けた宣教の必要性といった古典的教理に手を加えようとするのは危険な判断です。(伝統的表現を好まない)現代的な教会リーダーの中には、教理を強調しすぎないようにする、あるいはもっと言えば伝統的教理に手を加えなければならないと考えるリーダーもいるくらいなのです。
つまり伝統的、現代的どちらの側も見極めていないのは、それぞれの間に違いを生む存在とは何かということです。その何かとは例えて言うなら、教理的土台と具体的なミニストリーを結ぶ蝶つがいのような存在です。
この問題について今私が考えていることの多くは、リック(リチャード)・リンツの著書「The Fabric of Theology」から来ています。それによると、たとえ私たちが教会のために基本となる教理的土台を設定したとしても、それだけでは今自分が暮らす場所でそれをどのように伝えるのか、どのように実現させていくかという疑問に答えたことにはなっていないのです。また文化の中で何が認められ何が批判されるべきなのか、それぞれの教会によっては解釈の違いがあるとも言われています。例えば、現代的な音楽スタイルを使用することについての是非を見てみましょう。どのような違いがあるのでしょうか。
ウェストミンスター信仰基準では賛美に使うべき音楽の音色、リズム、音量、旋律、速さなどについては触れられていません。間接的に触れられているとしても、直接的な示唆、特に感情的な表現方法については詳説が無いのです。つまり信仰告白がどのように解釈されるかということよりも、文化がどのように解釈されるかによって分裂が生まれるのです。現代ポップカルチャーを有害(あるいはおそらく非常に平板で表面的)だとして、礼拝に使うのは不適切だと考える教会があります。一方で現代カルチャーをより積極的に、あるいは、少なくとも中立的に捉える教会もあります。ですから共通の教理的土台があっても、周囲の文化に違う姿勢で向かっているなら、二つの教会は教理を伝えるため、異なるミニストリーを実践していくことになります。
具体的なミニストリーの実践を形づくるのは単に文化の解釈によるものだけではありません。それぞれの教会は、キリスト教的伝統についても理解が異なります。過去の遺産から何をどれくらい継承するのか、あるいは手放すか。そうするのはなぜか、それぞれ違う見方をするのです。説教、伝道、弟子訓練にとって、理性や説得力が(感情やコミュニティーと比べ)どのような役割をもつかという考えも違います。
以上のような課題は、ほとんどの信仰告白や宣言に直接表されているわけではありません。しかしそのような課題にどう取り組むかは、ミニストリーの実践に確実に大きな影響を与えます。だからクリスチャンミニストリーは、その時代、その場所で違った表れ方をするのです。例えばクリスチャンの夫婦はそれぞれ個性があり、そのあり方は千差万別です。しかしどの夫婦も聖書の結婚の原則の表れなのです。それと同じように現代文化をどう理解するかを土台として、私たちがその変わらない教理をどのように実践し伝えていくかを形づくっていくとき、それはリンツのいう「神学的ビジョン」と呼ばれるものになるのです。同じ教理に立ちながら、文化、伝統、理性について異なる視点をもつ二つの教会は、やはり異なる神学的ビジョンをもちます。そのビジョンの違いは、宣教スタイルとして採用する表現、方法、プログラムに反映されていくのです。
例えば、ウェストミンスター信仰告白はピューリタン時代の神学者たちによって作成されました。この信仰告白に賛同する人は、多くの場合当時の時代背景に深い敬意を抱きます。そしてその敬意は結果的にピューリタンらしい説教や伝道方法として表れます。ウェストミンスター信仰告白に賛同するなら誰でもその著者の宣教方法を熱心に見習うべきだと思ったとしても、それは自然なことでしょう。しかしその仮定は信仰告白そのものではなく、文化の性質や伝統の役割についての前提を土台にしているのです。
どちらにしても、そういった仮定は最終的には重大な影響をもたらします。というのも、現代文化を軽視しピューリタン時代をことさらに強調するなら、そこから生まれる神学的ビジョンはかなり異質なものになり、結果的には様々なミニストリーが混在することになるからです。それは文化の中に一般恩恵を見出し、ピューリタンの終末論的視点や実践の中のどんな歪みにも敏感であること、またその立場から生まれるミニストリーからは程遠いのです。どちらにしても現代文化あるいは伝統の役割、ピューリタンの具体的な実践方法についての評価は、信仰告白といった基準そのものに設定されてはいないことは念頭におくべきでしょう。
そして私がわかったのは、多くのクリスチャンリーダーが教理的土台に到達するまで非常に慎重で意識的な学びをする一方で、神学的ビジョンを構築するプロセスについてはほとんど知らないということでした。文化、理論、伝統について熟考することなく、「わかった」つもりになっています。自分が感動した、あるいは個人的に助けられたミニストリーに出会い、その前提、信念、決断を理解することなく丸ごと取り入れます。
真摯でありたい、実りを見たいと願うクリスチャンリーダーは、もっと教理と宣教方法の間にあるこの神学的ビジョンという「ミドルスペース(中間地帯)」に注目すべきです。私が読んできた「教会をどう運営するか」についての資料のほとんどは、聖書による基本的な教会観か、具体的なミニストリープログラムをどう取り入れ実践するかのどちらかを扱ったものでした。「私たちの教理とは?」、「私たちのプログラムとは?」と問う代わりに「この時代とこの場所で実現すべき神学ビジョンとは何か?」と問う本が少なくとも私には見つからなかったのです。だから「センターチャーチ」を書くことにしたのです。
著者
ティモシー・ケラー
ニューヨーク市でリディーマー長老教会を開拓。ニューヨークタイムズのベストセラー、「The Reason for God」「Prayer」著者。世界各国で380以上の教会開拓に協力したNPO法人リディーマー・シティー・トゥー・シティー理事長。 妻キャシーとニューヨーク市在住。
Ministry in the Middle Space
August 31, 2012
One reason I wrote my new book Center Church: Doing Balanced, Gospel-Centered Ministry in Your City is that I believe there is a common misunderstanding of the relationship between doctrine and ministry.
Let me illustrate. A puzzling but common sight today is that many churches share the same doctrinal foundations, yet go about ministry in radically different ways. For example, consider two Presbyterian churches that both subscribe wholeheartedly to the Westminster Confession of Faith and catechisms. The first church uses contemporary music and very little discernible liturgy, employs lay ministers to lead meetings and ministries as well as pastors, and deploys the latest marketing and media strategies. The second church operates in almost the opposite way, using classical music, traditional liturgy, and emphasis on the ordained clergy. They also vigorously criticize the methods of the other church as a betrayal of the Reformed faith, and perhaps even of the gospel itself.
The same doctrinal foundations seem to be producing two completely different sets of ministry expressions. How can that be? And is it even a bad thing? Because the answers are not obvious, we draw two common but wrong inferences.
One mistake is to conclude that the first church is not holding to its doctrinal foundation firmly enough, and therefore it has “gone contemporary.” Traditional churches often say, “While they may subscribe to the Confession with their mouths, they don’t really believe it thoroughly.” The problem is that the foundational doctrinal statements (in this case the Westminster standards) do not speak directly to these matters of method and style. You could argue that the Confession implies this or that style of ministry, but proving the presence of these subtexts and implications is hard. There’s no reason to conclude that the contemporary-styled church must necessarily be untrue to the doctrine to which it subscribes just because of the style of its practices.
The opposite mistake is to conclude that the second church is traditional in style because it is holding firmly—possibly too firmly, depending on your point of view—to its doctrinal foundation. More innovative churches often assume, “they are backward and narrow because their doctrine and theology makes them so.” The dangerous conclusion is that, in order to do ministry that “really engages our culture today,” we need to re-engineer classic evangelical doctrine, such as substitutionary atonement, forensic justification, inerrancy, the holiness and wrath of God, and the necessity of ordained ministry. So some church leaders—who don’t like the form these ministries take—think the answer is to de-emphasize or even rework the traditional doctrines these ministries defend.
I believe neither side is seeing the true cause of the differences—the “hinge” between doctrinal foundation and ministry expression.
Rick Lints, to whom I owe much of my thinking on this topic, explains in The Fabric of Theology that once we settle our doctrinal foundations, we still haven’t answered the question of how exactly we are going to communicate and live out our doctrine in our place and time. He observes, for example, that churches have different readings of what in a culture should be affirmed and what should be criticized.
So let’s look at the question of the use of contemporary music forms. Wherein lies the difference? The Westminster standards don’t speak to timbre, rhythm, volume, melodic line, and tempo of music. They may speak indirectly, but certainly not directly, to emotional expressiveness. The divide is not over how the Confession is read, but over how the culture is read. One church sees contemporary popular culture as toxic (or perhaps as very thin and shallow) and therefore inappropriate for use in worship. The other church sees contemporary culture in more positive, or at least neutral, ways. So two churches with the same basic doctrine, but different attitudes toward the surrounding culture, will choose different ministry expressions to communicate that doctrine.
It’s not just readings of culture that shape a church’s ministry expression. Churches also have different understandings of Christian tradition—how much from the past should be kept, how much discarded, and why. They also have different understandings of the role of reason and persuasion—in comparison with the roles of emotion and community—in our preaching, evangelism, and discipleship. None of these questions are directly addressed in most confessions or statements of faith, yet it is clear that where we come down on these issues has a huge impact on how we do ministry. And so Christian ministry will still look different in various times and places, just as the universal Biblical principles of marriage take an infinite variety of particular forms in the unique personalities of millions of Christian couples.
When we’ve reflected on our contemporary culture and, on that basis, determined the basic shape of how we are going to practice and communicate our unchanging doctrine, we have arrived at what Lints calls a “theological vision.” Two churches with the same doctrine, yet holding different views of culture, tradition, and reason, will see different theological visions. Those different visions will in turn lead them to adopt different ministry expressions, methods, and programs.
To continue our example, the Reformed thinkers of the Puritan era produced the Westminster Confession. Many who subscribe to the Confession also greatly revere that time in history and so have largely adopted Puritan ways of preaching and doing ministry. They may naturally assume that anyone who subscribes to the Westminster Confession should also emulate the ministry practices of its writers. But that assumption is based on presuppositions about the nature of culture and the role of tradition, not on the Confession itself.
Still, these assumptions will matter deeply in the end. For to have a low view of contemporary culture but a very high view of the Puritan era will produce a very different theological vision—and consequently a different blend of ministry—than you will produce if you see common grace in culture and are highly sensitive to any distortions in the Puritans’ ecclesiastical practices and views. Either way, it is important to notice that no assessment of modern culture, or of the role of tradition, or even of the specific practices of the Puritans, is enshrined in the confessional standards themselves.
It has become clear to me that while most Christian leaders do very deliberate, conscious study and thinking to arrive at their doctrinal beliefs, they are almost blind to the process of developing a theological vision. They often just “catch” their convictions about culture, reason, and tradition without really thinking them out. They come upon a ministry that they admire or that helps them personally and then they adopt it wholesale without recognizing the presuppositions, convictions and decisions that went into it.
To be faithful and fruitful, more Christian leaders should pay attention to this “middle space” between believing doctrine and choosing methods. The vast majority of resources on “how to do church” discuss either the Biblical basics of church belief and practice or specific ways to adopt certain ministry programs. I don’t know of any book that, instead of asking “what should our doctrine be?” or “what should our programs look like?” instead asks “what is our theological vision for ministry in our time and place?” That’s why I wrote Center Church.
About the Author
Timothy Keller
Timothy J. Keller (born September 23, 1950) is an American pastor, theologian, and Christian apologist. He is the Chairman and co-Founder of Redeemer City to City, which trains pastors for ministry in global cities.