未接続:違う視点で日本文化に関わる

私と妻のダイアンが日本で宣教を始めたのは、1990年のことです。それから30年余り、教会が伝道のために取り組む従来の方法、英語クラス、クッキング・クラス、クラフト教室、特別イベント、アウトリーチ、弟子訓練、バイブル・スタディなどに携わり、力を注いで来ました。それらが実を結ぶこと、またそれらを通して神と人とに仕える喜びをいただきました。

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私たちの経験したほとんどの場面で、日本人はとても急いでいるように見えます。人々は忙しく、毎日スケジュールは一杯です。個人としても、家族の、また会社でのストレスが大きく、その忙しさについて行くことは容易ではありません。日本人は自分に対してとても真面目です。日本のドラマやコメディを見れば、その真面目さが分かるでしょう。ショー(番組)では日常文化の中で、共通して起こる出来事をとりあげ、笑いをとるのですが、そのなかで無責任な人や失敗する人に対しての態度や反応は寛容には見えません。欠陥ゼロのポリシーは、車を生産するにはとても大切です。しかし健康的な生活や毎日の人間関係に当てはめるのは大変です。失敗への恐れ、自分の弱さを見せること、また疎外されることへの恐れなどが完璧な自分を演じるために真面目さを保ち、自分のことを笑って済ませる傾向が無いように見受けられます。

ミッションは、世界に通用する基本的な方針を求めます。教会開拓を導くため、また指針となるような一般的なレベルでも、また個人的な背景にでも適応されるようなものです。私たちもまた他の人たちの経験や学びから大きな助けを受けて来ています。これからもそれは受け継がれて行くでしょう。日本人との関わり、また日本文化との関わりを持つ上で、私たちの生活の中で特に三つのことが、具体的な重要になっています。私たちは、神様がどのように私たちを造られたか、そして賜物をくださったか、私たちの人生の後半のミッションにどのように導かれているか、さらに深くわかるようになってきました。つまり、私たちは「未接続」なのです。実現されていない方法か、過去に試みられていない事に接続されながら、さらに高度な地点へと意図されて、未だ接続されていないのです。

急がない時間

急がない時間というのは、私が時計を見る事なく(気にせず)過ごせる状態にいられるという事です。私は何かを達成することができても、何も達成できなくても、どちらでも平安が与えられるようにと、わざと祈ったことがあります。そうすると、神様がその時に何をしたいと思っていらっしゃるか分かるからです。例えば知人から食事に誘われたり、彼らが関心をもっているイベントに誘われたら、行けるような時間の余裕が欲しいと思います。たまたま通りかかって私のスタジオに寄ってくれた人と、ちょっと座っておしゃべりをする時間も欲しいです。でもそれには、ある程度犠牲を払わなくてはなりません。毎日どうしてもしなければならない仕事や、責任のある日課は、早朝、または夜遅くに組み入れて、そのような時間を開けておくようにしています。その日思いがけなく、私のいる場所に誰が連れてこられるのか、また私が誰を訪ねるようにされるのか、神様の思いを知ることが私の喜びです。

計画的でない出会い

計画的でない出会いとは、何かの目的のために会った場所で、人と人とが自然に交流し、またお互いが出会うということです。私にとってそれは私のスタジオです。そこで仕事をしながら、誰かに会いたいなと思ったら、ただスタジオの引き戸を開けさえすればいい、その外側は外の通りへとすぐ開かれています。もし私が3階の部屋にいたら外の歩道にある面白い看板に気がつくでしょうか? その違いは何だろうと思うのです。道行く人たちは、私が製作しているアートに気づくでしょうか? たとえ興味をもったとしても満たされるでしょうか? 中で何が行われているのかよく分からないような閉ざされた部屋に平気で入って行きたいと思うでしょうか? 面白いことに私のスタジオに足を踏み入れた人は、一旦興味がわくと、最終的にはスタジオの全てを見学することになるのです。全く見ず知らずの人々を、私の居間、キッチン、納戸、風呂場やトイレに招き入れ、その建物に関する話題で盛り上がります。そこには私が収集した沢山のオブジェ、絵画に彫刻があり、話の種はつきません。アートは質問を投げかけ、文化と関係の深い会話や、心を通わせ合うやりとりを作り出す、ユニークな役割を果たすのです。これは美学的見地の高い文化を持つ日本では、特に当てはまることなのです。アーティスティックな創造性は、発見へのパイプであり、他の人々とのつながりを生み、私たち自身や、私たちのコミュニティーの成長を促進する役目を果たすのです。美は日本における愛を伝える言葉(方法)の一つなのです。

教会開拓の基本的方針と人工統計は、文化の交わる所や、様々な住民の住む場所を成長する地域だと強調しています。私たちがいる場所は再開発に力を入れようとしている市です。この地域のほとんどが、陶器と焼き物芸術を中心として成り立っています。住民は一般的に高い年齢層の方が多いです。新しい若い世代の人々が、町に目立って来ている空き家や、廃墟となっている建物を再生しようと、冒険的事業(ベンチャー)を起こしています。私たちはこの地域に引っ越した時、人々が自然に足を運ぶ場所にしたいと思いました。私たちの町には、最寄りの駅から名古屋の中心街に、通勤・通学する人も多く住んでいます。私は神様が私たちを置かれたこの場所を好きですし、感謝しています。それはこの新しいコミュニティーで、神様から思わぬ出会いを与えられ、そこに住む人々と自然に出会わせてくださること、通りがかる近所の人、またいつもの決まったスケジュールで通勤のため駅へ向かう人々にも出会わせてくださることも感謝しています。

重くない笑い

気軽に笑い合うこと、共通の経験や、一緒に活動をしたことを、笑いとともに共有することができる。私にとってこれは、より深い会話へと進む小径です。笑いは心を開きます。私が一年に何度も足を運んだ集会で、演劇の才能のある夫婦が話をしました。彼らは切れの良いユーモアで、私たち自身のことを思わせるような笑いを提供してくれました。時には、そのお芝居が示すテーマは「部屋の中にいる象」のような、誰もが認めたくない、話したくはない事であるけれど、確かにそれは現実だと誰もが知っているようなことについてでした。笑いは私たちの心を無防備にさせ、同時に私たちに挑戦さえします。そうやって心開かれたとき、私たちは真実を素直に受け入れることが出来ました。笑いを共有すると、私たちはつながるきっかけを見つけ、お互いに理解し合えるのです。それは私たちの感情、心はもちろん、今までの経験や知性をも深くとらえるのです。

急がない時間、計画しない出会い、そして重すぎない笑いの一瞬一瞬に、私たちは喜びを見い出します。こういうことが今の私たちにはとても有益ではないでしょうか。私たちは神に向かう軌道の上に生かされています。その私たちとつながりを持つ人々もまた、同じ方向へ引き寄せられていると思うのです。このミニストリーを通して神様が計画して下さっていることを期待し、希望をもっていきたいと私たちは思っています。

 

著者

ピーター・ベイクラー

ピーターとダイアンは1990年から日本で教会開拓に従事。ピーターは、ロードアイランドデザイン大学(美術学士イラスト専攻)卒業、コロンビア国際大学神学校及び宣教学校(外国語/異文化研究英語教授修士)修了。アートを通じて福音宣教に携わってきた。