CTC DNA:  福音とは何か?

以下はリディーマー・シティ・トゥ・シティ(以下RCTC)がまとめた文書福音中心の都市ミニストリー:CTC DNA」(Gospel-Centered City Ministry: The City to City DNA)の第一章から抜粋したものです。RCTCの共同創設者で前会長ティモシー・ケラーがRCTCの核となる価値観について詳しく述べています。


初めに悪い知らせがあります。それは私たちが神から離れているという知らせです。それは私たち誰もが(無宗教者でさえ)、神に目を向ける代わりに様々な代替物で自分自身を救おうとしている、という事実から証明できます。私たちはそれを集団(クラス、人種、家族)レベルと個人レベルの両方で、心理的に(特技や知識)、社会的に(友人、伴侶)、政治的に(政治団体の掲げる公約)様々な方法で行い、救いを求めます。しかし私たちが神から離れているということを本当の意味で証明するのは、自分で自分を救うことができていないという事実です。財産や人種、特技に自分の価値を置くと、一時的な満足感は得られるかもしれませんが、本当の救いを得ることは決してできません。神から離れていると、どんな社会的立場にあっても、誰でもいつも何かしら救いを求めるようになるからです。


それではどうして私たちはそもそも神から離れているのでしょう。この世界が創造された後、人類によって罪がもたらされました。その壊れた状態が今だにこの世界に続いているのです。罪は個人的にも(欲深い人はどれだけお金があっても足りない)、社会的にも(あるグループから取り上げて他のグループを豊かにする不公平なシステム)、引き続きこの世を動かしています。私たちと神との間の隔たりは主観的、客観的双方の面から存在します。主観的には私たちの心が偽りの救いの奴隷となり、神の愛を遠ざけています。客観的には私たちは神に対し、自分では償えない罪の負債があり、その罪の結果を正しくとらえる神はそこから距離を置かれています。そこからわかるのは、私たちが救われるのは、ただ恵みによってのみということです。

私たちは、神を知り、何よりも神を愛するようにつくられました。だからこそもしそれができないと、私たちは神から孤立するだけでなく、機能するはずだった他の関係も全て壊れることになります。自分自身との関係、他者との関係、そしてこの世界との関係は傷つき、修復される必要がどうしてもあるのです。それは誰もが日々感じていることでしょう。福音は、悪い知らせとは、罪がこの世を壊すということ、また救いを得ようと努力し続けても私たちには自分自身を全く救えないということだと示します。

しかし福音は、良い知らせでもあります。つまりイエス・キリストの死と復活を通して、私たちが救われるのに必要なことは全て神によって成し遂げられたという知らせです。これは神からの無償の恵みです。私たちがキリストを救い主として信頼する時、罪の赦し(またそれ以上に多くのもの)を受けます。その全体像をとらえるためにはまず「身代わり」の重大さを理解しなければなりません。歴史を通して生きてきた人間の中でイエス・キリストだけが私たちが生きるべき完璧な生涯を送りました。イエスだけがふさわしい神の恵みを受け取りました。私たちが経験すべき呪いと罰を受けて死なれました。イエスは私たちの代わりにそのような経験をされました。私たちが当然受けるべき罰を代わりに受け、イエスが当然受けるべき恵みを私たちが受けています。これが本当の恵みと賜物による救いです。


聖書にはこの交換的な救いについて多く語られています。いくつかの例を挙げましょう。


「キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、あなたがたを神に導くためでした」(第一ペテロ3:18)


「人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです」(マルコ10:45)


「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。『木にかけられた者はみな、のろわれている』と書いてあるからです。それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした」(ガラテヤ3:13-14)


「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちが、この方にあって神の義となるためです」(第二コリント5:21)

新約聖書学者マレイ・ハリスはそれをこう言っています。「神がキリストにその本質ではないもの、すなわち罪を負わせた結果、キリストを信じる者はその本質ではないもの、すなわち義を受けることができた」。エペソ2:6では過去形が使われていることに注目してください。「神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちを共によみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました」。なんと圧倒されるようなイメージでしょう!

私たちの罪のために十字架で犠牲になったことで、イエスは私たちが受けるべき呪いと罰を受けました。代わりに私たちはイエスが受けるべき恵みと栄光を受けました。ご自分を無にして身代わりになるという行為によって、神は正しく、信じる者を正しい者としてくださる神だと言えます。欠けのある私たちは罪を赦されただけでなく、キリストの贖いによって無条件に受け入れられました。自分自身によってではなく、イエスによって完全に救われた、だからこそ福音は良い知らせなのです。まさに自分ではできないことが達成されたから、本当に良い知らせなのです。そして恵みによって救われることに加え、私たちはただこのキリストによって救われなければなりません。

最後に、さらに良い知らせがあります。私たちが悔い改めて信じるなら、そして様々な代替物に寄せていた私たちの信頼をイエスへ移すなら、イエスの犠牲によって、全ての和解を手に入れることができます。キリストに自らを捧げ、御父がキリストの十字架によって私たちを「神の義」を持つ者として認められた時、神は私たちに聖霊を送ってくださいます。聖霊は私たちの心や性質をつくりなおし、最終的には天と地を、苦しみ、悪、不公平、そして死のない場所に変えられます。

イエスの復活は、将来にある神の力と御国をもって、今の私たちを新しくします。これは個人の新しい生き方だけでなく、「教会」という新しいコミュニティーを築き上げることを意味します。それは将来完成する新しい被造物を反映する姿です。福音を喜び抱く私たちの中で起こること、そしてそんな私たちを通して世界で起こることを考えると、福音は最良な知らせと言えるのです。

著者:ティモシー・ケラー 

RCTC(リディーマー・シティー・トゥー・シティー)の前会長、マンハッタンのリディーマー長老教会の創設者。リディーマー長老教会は1989年に妻キャシーと3人の若い息子によって開拓された。25年以上に渡り都市の若い世代、専門家やビジネスパーソンの多い会衆が集い、毎週5000人も集まる教会に成長した。