牧師と聴衆 

編集部注:以下のブログは、ブランドン・J・オブライエンの新著『三次元で聖書を読む』からの原則を使用しています。彼が提唱する三次元で聖書を読む方法、また会衆間で異なる聖書の読み方を導く方法についての詳細は、この本の全文をご覧ください。


三次元で聖書を読む

ここ数年、私は米国内外の学生、牧師、信徒など、さまざまなグループを導いてきました。どれも同じワークショップで、第二サムエル記下11章(「ダビデとバテシバ」の物語)を三つの質問をもとに対話形式で進めていきます。同じ箇所を観察し質問をすることで、この章を理解する上で以下のような三つの次元が私たちにどのような影響があるのかを探っていきます。 

●      そのストーリーの中に何があるのか。

●      そのストーリーの背景にあるものは何か。そして

●      そのストーリーを読む時に持っている前提は何か。

もちろん、どのワークショップも一つとして同じ経験にいたるものはありません。しかし、共通して見られることがいくつかあります。例えば参加者は決まって、それまで気づかなかった物語の細部が見えるようになることに驚きを覚えます。ストーリーの背後にある社会的、文化的な動きをより深く知ることで、ストーリーが生き生きと見えてくると言うのです。そして自分がいかに多くの思い込みや経験を前提としてその箇所を読んでいるかを思い知らされるのです。

つまり、ワークショップの始めには見えなかった、(そのストーリーの)いくつもの細かい点や動きが、終わる頃には明確になるのです。具体的には、聖書がより説得力のある、現実的なものに感じられるようになったというコメントをよくもらいます。

ストーリーを読む前に持っている前提

このようにグループと関わる経験は、私にも目が開かれるような経験でした。何年か関わるうちに、私が聖書を読む前に持っている前提は、このワークショップの参加者や、私が説教するときの会衆の前提とは、まったく違うことが多いとわかってきました。たとえ私たちが文化的に多くの共通点を持っていたとしても、たとえば私たち全員が白人であったり、アメリカ国籍であったり、中流階級であったとしても、聖書に対する信徒の直感的な反応は、しばしば私のそれとは大きく異なるのです。

マーク・アラン・パウエルの優れた小著『What Do They Hear?』では、それが数値化されています。 教会の教職者やリーダーと、そうではない信徒たちの二つのグループに対して以下のような実験を行ったのです。

イエスと弟子たちが儀式的な手洗いの儀式を経ずに夕食をとるというマルコの福音書7章1節から8節の物語を二つのグループに読んでもらいました。パリサイ派と律法学者たちがイエスにこう質問した箇所です。「なぜあなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えによって歩まず、汚れた手でパンを食べるのですか?」

それからパウエルは両グループに、単純な、そして答えが決まっていない、以下のような質問をしました。「このストーリーはあなたにとってどんな意味がありますか」

教職者の間では、二つのパターンが浮かび上がりました。第一は、約80%の牧師が物語の中のイエスを連想しました。「このストーリーはあなたにとってどんな意味がありますか」という質問に、彼らはイエスに倣うためにどのように振る舞うべきかという観点から答えたのです。この箇所から、聴衆に教えるための具体的適用を導き出そうとしたのです。以下の二つの応答からそれがわかります。

「私の教会ではいつも『そんなやり方はしたことがない』と言われる。でもここからわかるのは『人間の伝統は神の命令ほど重要ではない』と言うことだ。それをイエスは私に言って欲しいのだ」

「たとえ求められているのがどちらかと言えば心温まるような話を聞いたり、宗教的儀式に参加することだとしても、私たちはみことばを宣べ伝える必要がある。彼らが必要としているのは必ずしも彼らが望んでいるものではないかもしれない。むしろ、必要なのは神のことばの解き明かしだ」

これらの反応は、リーダーならまったく理にかなった適切なものでしょう。私にとってもそうです。しかし、一般信徒の反応と比較すると、非常に興味深いことがわかります。

と言うのも一般信徒の間では、以下のような異なるパターンが見られるからです。

つまり大多数の一般信徒は、このストーリーの中で自分を弟子たち、あるいはパリサイ派の人々と結びつけていました。彼らは、この箇所を自分たちへの慰め、あるいは叱責として解釈するのです。以下の二つの応答がそれを示しています。

「イエスを喜ばせるために、いつもすべてを正しくする必要はないと知って慰められた」

「恥ずかしながら私はパリサイ派の人々と似ている。口先では礼拝しているが、いつも本心から礼拝しているわけではない。私も偽善者だと思う」

もう一つ、言及しておくべき興味深いパターンがあります。教職者よりも一般信徒の方がパリサイ派に共感する傾向が非常に強いのです。教職者のうちパリサイ派を支持する人は10%にも満たなかったのですが、一般信徒のほぼ50%はパリサイ派を支持していたのです。

そして一般信徒は以下のように自分の牧師をパリサイ派と比較する傾向がありました。 

「牧師や教会の教職者たちは、いつも何かと一般信徒に批判的だ。イエスはそんな教職者たちに『やめなさい、彼らはベストを尽くしているのだから』と言うだろう」

ストーリーの二面性

聖書を読む時、その前提として何があるかを見極めるにはどうしたらいいでしょう。私は皆さんに「自分はこのストーリーの登場人物とどのような点で似ている、あるいは違っていると思うか」という質問をするように勧めています。パウエルの研究では同じ質問への答えが全く異なるということが示されました。そして、牧師とその信徒がその問いにどう答えるかの差はかなり大きいのです。ある牧師はマルコの福音書7章を読んで、直感的に、深く考えることなく、「私の信徒が聞くべきなのは、愚かな伝統を捨ててイエスに従おうという挑戦的なメッセージだ 」と結論づけるかもしれません。一方でその牧師の会衆は、同じ箇所から直感的に、ためらうことなく、「私たちが本当に聞くべきなのは、牧師が私たちに守らせようとしている規則をすべて守れなくても、イエスが私たちを愛してくださっていることを思い出させてくれる慰めのメッセージだ!」と結論づけるかもしれません。

パウエルはこの考えを以下のように要約しています。

「説教者は、聴衆が自分とは異なる視点からストーリーを聞いている可能性があることを理解する必要がある。その箇所について、当たり前すぎて言うまでもないと思われる関連性を前提とすると、その説教は失敗する可能性が高い。そういう関連性は、多くの信徒には当たり前ではないかもしれないからだ」

私たちが教え、説教する人々は、聖書を読む時にさまざまな仮定や経験を持ち込み彼らが見るものをかたちづくっています。ですが、私たちもまた同じことをしているのです! 私たちもレンズを通して読むからです。そのレンズが見るものに光を照らすこともあれば、曇らせ曖昧にすることもあります。少なくとも私たちのレンズは、信徒が身に着けているレンズとはかなり異なっていて、その違いはとても重要だと考えるべきです。その違いを意識することで、私たちはより効果的に共感できる伝達者になることができます。

だから、私は説教をするたびにこのワークショップを開きたいと思うほどです。一緒にその聖書箇所を読み解くことで、その場にいる人々をより深く理解することができるからです。彼らが問いかけること、口にする懸念、共鳴する登場人物は、彼らが聖書を読む時に持っている前提を理解する助けになります。何より一緒に読むことで、私も聖書をもっとよく理解できるようになります。私はいつもこの経験から何かしら新しい気づきを与えられます。一緒に読むことで、自分自身をよりよく理解する助けにもなります。自分の限界や盲点を指摘され、私自身が信仰の成長を続けるために聖書と共同体の両方がどれほど必要かを思い知らされるからです。

著者:ブランドン・J・オブライエン

トリニティ神学校博士。世界の都市での教会建設を支援する組織Redeemer City to Cityのコンテンツ開発・配信ディレクター。ベストセラーとなったE・ランドルフ・リチャーズとの共著『Misreading Scripture with Western Eyes』(インターバーシティ・プレス、2012年)を含む数冊の著書の著者であり、共著者でもある。妻のエイミーと2人の子どもとともにシカゴに在住。