以下はリディーマー・シティ・トゥ・シティ(以下RCTC)がまとめた文書「福音中心の都市ミニストリー:CTC DNA」(Gospel-Centered City Ministry: The City to City DNA)の第七章から抜粋したものです。RCTCの共同創設者で前会長ティモシー・ケラーがRCTCの核となる価値観について詳しく述べています。( https://redeemercitytocity.com/articles-stories/city-to-city-dna-what-is-contextualization)
文脈化とは何か?
文脈化とは、聖書の真理をそれぞれの文化に合わせて表現し、実践することです。そうすることで聖書の真理を全く妥協することなく、同時にできるだけわかりやすく説得力をもって伝えられるようになります。そのためには次にあげる二点を避けなければなりません。第一は過度な文脈化です。その文化の表現や慣習に合わせるというよりも、真理そのものを改ざんして真理を尊重することができません。第二は不十分な文脈化です。不必要に異質で理解しにくく、これもまた真理を尊重できません。
文脈化は大事なこと(本質)とそうではないことを区別します。一方で、反感をかう可能性はあるものの、罪の概念、悔い改めの必要性、キリストのもとから失われている状態など、福音の本質を一つも取り除いたりしないように注意しなければなりません。一方、福音を届けたいという相手の感受性を傷つけたり混乱させたりしないように、不必要な言葉や習慣は取り除かなければなりません。本質とそうではないものの違いをはっきりさせることは、新しい教会、新しい時代、新しい世代に合わせて文脈化する上で避けられないことです。
文脈化するとは、人々が聞きたいことばを伝えることではありません。(たとえ相手が聞きたくないことかもしれなくても!)神のことばを伝えるのです。人々が身近に理解できるような文化の範囲で体現され、すでに信じられていることがらに基づき、彼らが理解できるように議論されなければなりません。
文脈化は「送る側」すなわち話し手ではなく、「受ける側」、聞き手を中心とするものでなければなりません。聞き手が努力しなくてもわかるように、愛をもって重荷を背負い、聴衆がつながれるようなコミュニケーションの「努力」をすべきです。キリストの仕える姿勢が、私たちのコミュニケーションに適用されるというわけです。文脈化は、神の不変のことばと、絶え間なく変わっていくこの世界や環境の中間で起こります。
聖書と文脈化
使徒の働きには、初代教会での文脈化が見られます。13:16ー41では、パウロが会堂で聖書の神を信じたユダヤ人に福音を伝えました。14:8-17では、パウロが肉体労働に携わる異教徒に福音を伝えました。最後に、17:19-31によるとアテネの哲学者のような知識階級の異教徒に福音を伝えました。以上のような福音の提示方法の違いと類似点には驚かされます。変わることのない福音が様々な聴衆に様々な方法で伝えられたのがわかります。その上、伝道者としてのパウロはそのメッセージだけではなく自分自身をも文脈化させたのです。
宣教師は宣教地に住み、社会の一員になり、愛や正直さ、親切、隣人への配慮といったものを具体的に表すことで、福音を人々に示すことができます。そのような姿勢から、信者でない人たちは、自分の文化の中でクリスチャンであるとはどういうことなのか想像できるようになります。
文脈化には聖霊の働きが直接関与しています。使徒の働きの冒頭では、聖霊が働き、福音はエルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで及ぶことがイエスによって語られました(1:8)。言い換えれば、聖霊の意思と働きが文化の壁を破り、様々な社会環境の中で福音を伝えることを可能にしました。例えば、そういった大きな文化の動きの中で、ピリポとエチオピアの役人との出会いが用意されたのも聖霊の働きの一部なのです(使徒8:29、39)。
聖書全体を通して、どの聖書記者も文脈化しています。しかしその中で最も意義深い文脈化はイエスのよみがえりそのものだと言えるでしょう。神はただ人間になってこの世に来たのではありません。イエスはガリラヤ出身のユダヤ人として、特定の文化の中に生まれ、文脈化された人間でした。それは私たちがイエスについて具体的に想像し、理解できるためです。まさにイエスは「人となったことば」(ヨハネ1:14)でした。人として、「神の本質の完全な現れで、神の栄光の輝き」でした(ヘブル1:3)。神が私たち人間の本質に合わせ、調整してくださったのです。
イエスが罪は犯すことなく完全に人間になったように(ヘブル4:15)、私たちは福音のメッセージに合わせ、妥協することなく文化に適応しなければなりません。まさに、イエスがヨハネ20:21で「父が私を遣わされたように、私もあなた方を遣わします」と言っているように。
なぜ文脈化するのか?
文脈化は神学的に避けられません。聖書のどの箇所もただ抽象的に書かれているわけではありません。むしろ全ては実際の状況の中で従うことができるよう明らかにされます(申命記29:29)。カルヴァン派神学者ジョン・フレームはこう書いています。
繰り返し繰り返し、説教者(など)は文章の「意味」を宣言し、その後に「適用」を伝えてきました。最初に「何を意味するのか」、次に「私たちにとってどんな意味があるのか」という順番です。…(しかし)意味への求めは、適用への求めでもあります。…意味を求める人は、日常生活に使えるほど十分にその箇所を理解できていません。…聖書によると、人は新しい状況、又は想像すらできない状況で適用できるようにならなければ、その聖書箇所を把握し理解しているとは言えないのです(マタイ16:3:22:29、ルカ24:25,ヨハネ5:39,ローマ書15:4,2テモテ3:16,2ペテロ1:19-21)。
フレームの主張はこうです。もし私たちが日常の場面に、ある聖書箇所をどう適用し、どう従うかがわからなければ、その箇所の意味を理解していることにはなりません。ミニストリーデザインでこの方法を活用すると革新的な結果が表れます。これまで多くの聖書学者が聖書からひとつの純粋なミニストリーデザイン、又は教会のあり方を抽出しようとしてきました。それがどんな文脈であっても忠実に再現されなければならなかったのですが、フレームはこれを契約的な啓示としての聖書を誤解していると言います。むしろ教会にそのあり方を示す聖書の絶対性は、異なる時代と文化の中で、違うかたちとして表現されるようでなければならないのです。
すでにどの神学も、多かれ少なかれそれぞれの文化に文脈化されています。例えば体系化された教義は、重要な点や私たちが抱く疑問を中心に統合され、真理が整理されています。しかしそういった疑問点はどのようにリストアップすればいいのでしょうか。なぜ神学者はそのような疑問をもつのでしょうか。それはほとんどの場合、自分たちの時代や文化の中での経験から疑問が頭に浮かぶからです。そして私たちは聖書の中でその答えを探します。結果として文化に影響され、教義は体系化されるのです。
以下の例を考えてみてください。聖書では神の栄光を讃えるために音楽を使うように明確に教えられています。しかし音楽の種類を選ぼうとすると私たちは文化の領域に直面します。又は教養、芸術、職業、テクノロジーの程度に合わせて言葉を選ぶ時、私たちは一定の社会や文化の方向に進んで行き、その他の社会や文化からは遠ざかって行きます。感情的な表現や強調する点、あるいは説教の中での例話を選ぶ時でさえそれが起きます。その結果、一部の人々には受け入れやすく、他の人たちには受け入れにくいメッセージになるのです。
つまり今まで書かれ体系化された教義は全てすでに「文脈化」されていることになります。そしていつの時代でも文化でも、その時と社会に合った新しい疑問を念頭に置いて聖書に向かわなければなりません。
私たちは(真理は全て自分たちの経験に結びついていると教える)相対主義の立場をとっていません。過去から受け継がれてきた、心が突き刺されるような明確な罪の告白を捨てたり軽く扱ったりしてはいけません。しかし、新しい会衆は前世紀の疑問から生み出された形式を使うだけにとどまっていてはいけないのです。自分たちの世代の疑問に答えて、今向き合っている混乱や困難に福音を適用しなければならないのです。