現代社会に浸透しているのはメディアだけではない。フェイスブックやツイッターなどソーシャルメディアの並外れた成功は、実はもっと大きな潮流が可視化したものだと指摘する声が増えている。フェイスブックはインターネットを広大で不透明なコンテンツから、関係性に意味を見出すネットワーク(インターネット2.0と呼ばれている)へと変化させた。それと同じように人々の人生や信仰への取り組み方も変わってきている。それはもっと社会的になる一方で個人主義は薄れ、何かを信じたり考えたりするより何かに属していることが重視されるようになってきた。
この現象と、それが信仰に至る道に与える影響、そして私たちが人々にどのように福音を宣べ伝えていったらいいのかを理解する上で二つの包括的な潮流を知ることが役に立つ。
1) 文化の分断 西洋文化、特に大都市における文化は、以前のように均質的ではなくなっている。多くのサブカルチャーに分かれ、その一部は民族、家庭環境、政治的イデオロギー、社会経済的地位、宗教、あるいはライフスタイルの選択によって重なり合っている。この巨大な集合体に入り込む道を探している若者にとって、道はひとつではない。ある程度目に見えて信頼できる複数の道の可能性を、彼らがつながるソーシャルネットワークによって探ろうとする。このような文化的分断はまた、私たちが信頼できる領域を広げることにもつながる。つまり私たちは「外部にある」複雑な世界、覇権争いや主義主張を信用せず、人や制度を信頼するようになる。クリスチャンがそうでない人と親密で個人的な関わりを深めると、巨大な集合体の中で(個々人の)顔と声が識別されるようになる。
2) 成人形成期(emerging adulthood)の台頭 - 経済的プレッシャーの増大、教育年数の長期化、晩婚化などにより、ここ数十年の間に新しい中間的なタイプの青年期が形成された。おそらく3世代前まではほとんどの人が思春期から成人期の確立した生活(安定したキャリア、結婚、子供、持ち家)へ直接移行していったのに対し、今日の成人形成期にある青年は20代、30代まで結婚せず、職業も住む場所も柔軟である。社会学者クリスチャン・スミスは成人形成期にある青年の精神生活について研究し、「彼らのほとんどは、自分が自由で、流動的で、暫定的で、実験的で、比較的束縛されていない人生の段階にいることを理解している」と書いている。(1) つまり、以前の基本的な社会単位だった核家族は、家を出てから新しい家族を形成するまでの長い独身期間によって先延ばしにされるだけでなく、同棲、離婚、別居、ひとり親、シェアハウス、実家へ戻るなど、様々な関係性に取って変わるようになった。そうなるとこのような人生の局面における基本的な社交的単位は何だろうか。『フレンズ』や『セックス・イン・ザ・シティ』のような番組に登場する友人グループは、第一に誰かが引っ越して来たり、出て行ったり、一緒になったり、別れたりするといった流動的に拡大していくことによって保たれる。第二に趣味や、文化的・社会的関心、あるいは宗教的信条を中心とした思想や親和性に基づく交流によって保たれる。若い世代は人生に対して、また永続的なアイデンティティーに対して同じように向き合う人たちとつながり、自己発見への社会的アプローチを確立させようとしている。
こうした傾向は、今日、人々の信仰への取り組み方にどんな影響をもたらしているのだろうか。家庭で信仰を得ない人々、つまりクリスチャンホームで育っていない人は、社会で信仰に取り組むことになる。複雑で不信感を抱きやすい風景の中に埋没した多くの物語と同じだと思われないために、福音は馴染みのある親密な関係を通して、自分の信頼できるフィールドの中に具現化される場合にのみ、真剣に耳を傾けてもらえるようになるだろう。そのような関係を通して初めて、福音を集団に示す道が開かれる。変わりゆく風景の中にあっても福音は信じる価値があること、また実際に生きることができると示す道である。福音が具体的かつ魅力的なかたちで体現されることで、人はその信仰を自分のものとして受け入れたいと思うようになる。福音が個人や集団を通して目に見え、現実のものとされない限り、福音は異質なものであり続ける。そうならないためには、個人が福音につながりたいと感じる道がなければならない。また、知性的な人々が福音を信じそれを明確に表現することがないなら、福音は説得力を失い、神への信仰を積極的に表すことが対抗文化的とみなされる風潮の中で疑念を持たれることになるだろう。
こういった信仰への道の社会的背景が、私たちの都市での使命にもたらす意味を3点強調したい。
1. 属すること>信じること>行動すること:多くの教会指導者は、教会に来る人々がすでに福音を完全に信じ、それに従って生きている状態を望んでいる。より伝統的な教会は、実際にこのように振る舞い、人々がすでに信仰を持ち(友人やトラクト、伝道集会などを通して教会の外で信仰を持った状態)、少なくとも目に見える罪が洗い流され、すでに「クリスチャンらしく」行動している場合にのみ教会のからだに組み込まれたと感じられるようにしている。しかし、今日信仰を考えている人々は、信じて「行動」するようになる前に、帰属意識を感じる必要がある。このことを念頭に置くと、トラクトやウェブサイト、無名の講演者のような 「冷たい」媒体は(その人が深刻な個人的危機に瀕していない限り)、人に自分の信念を考え直させるような真剣さや信頼感を与えることはできないだろう。実際、所属するという行為そのものが、信念や行動を決める上で最も影響を与える要因かもしれないからだ。
2. 教会開拓の重要性:人々が信仰に至る道筋は、ますます社会的になっている。つまりかつての大衆的なアプローチ、たとえば(リバイバル運動に見られるような)大衆伝道、大会、テレビ伝道、街頭行進は、未信者に届くという点ではほとんど効果がなくなってきている(集まり、養われ、強められるという点では信者にとってその重要性が続いてはいるが)。友人から友人への伝道もまた、そのプロセスの一部として重要ではあるが、そこから教会や集まりといった、さらに大きなグループにつながらない限り、それだけでは不十分になってきている。そこで人々の信仰に対する社会的なつながり方に最も適していると思われるのが新しい教会開拓である。つまり、人の集まりが増殖し、そこでは福音を信じること、福音そのものが明確に説明される。そういう信者を目の当たりにし、人は信仰について考えたり、信仰を身近に感じたりする余白や好感を持てるようになる。
3. 開かれた温かいコミュニティー: 人々が信仰を保つための社会的な道筋において、ある人たちにとって特定の教会が最も効果的に働く。つまり開かれ、温かく親密で、新来者の恐れや疑念に敏感な教会である。そのために必要なのは、具体的に感じられる信者の生き生きとした活力である。対して私たちの教会の多くに見られる倫理的精神は、求道者に手を差し伸べたいと強く公言していたとしても逆に彼らを遠ざけてしまう。
現代の都市の文脈では求道者が信仰に至る道筋は本質的に社会的である。つまり、彼らが心を開き信仰を持ち、それまでと違う行動をとるようになる前に何かに所属する必要があるとしたら、私たちの教会はどのようにして彼らに手を差し伸べ、招き入れることができるのだろうか。そのような人たちと知り合い、親しくなり、信仰に導くために、私たちの教会は具体的にどうすればのだろうか。
社会的に配慮する教会の具体的な特徴をいくつか挙げてみよう:
1. 開かれたネットワーク: 集団とは通常、自分たちの中に閉じこもり、その必要だけに注力しようとする傾向がある。このような社会的ダイナミズムは、宣教に対してある程度敵対的な文脈で強く現れる。特にグローバル都市中心部の無限に広がる不信仰の世界で、私たちの小さなコミュニティーを信仰の基地や隠れ家とする誘惑があるかもしれない。自分が信じているということ、何を信じているのか、なぜ信じているのか、といったことを自分自身で確認したいし、確信していきたいと願っている私たちは、それを本能的に外部の文脈から離れた安全な環境でしようとする。私たちの教会は閉ざされたネットワークになっていることがあまりにも多く、多くの人がキリストを受け入れるのを見たいと思いながら、そういう人々が自然と教会に現れることを期待し願う以上のことをしない。このような動き方では未信者と親しくなるための時間とエネルギーを投資する基本的な努力も生まれず、彼らが来たときに歓迎し関心を示し受け入れる姿勢も育たない。ロドニー・スタークは、初期キリスト教の勃興に関する研究の中で、初期教会が開かれたネットワークを維持することに特に優れていた点、つまり周囲の必要に気を配り、未信者に仕え、彼らを温かく迎え入れたことに注目している。(2)
私たちの教会が社会的に開かれた存在であり続けるための具体的な実践方法を以下に挙げる:
a)厳選された数の集会を主催する:毎週のリーダーのための会も含めた教会活動の回数を制限することで、会員が求道者と親しくなり、夕食に招待したり新しい関係を築くために頻繁に外出する時間を確保する。
b)さまざまなスペースを活用する:教会や「自分のホームグラウンド」だけでなく、広場、公園、パブ、家庭など、さまざまな環境で人と会う。目的は人々が「公式」礼拝以外の場所で教会につながるだけでなく、信者が教会の壁を越えて、都市の発展のためにさらに大きなビジョンを持てるようになることだ。「野外説教」について書かれた章で、チャールズ・スポルジョンはこう書いている。「もし田舎の友人たちを誘って、年に何度か草原や木陰や丘の上や庭や共有地で開く礼拝に導くことができたら、普段の礼拝者にとっても新鮮な経験になるだろう。場所の目新しさだけでも、彼らの気分が変えられ、目から鱗が落ちるような経験になることを私は確信している」(3)
c) 定期的な交流活動: 新来者をまず誘えるようなピクニック、スポーツ、映画鑑賞など、純粋に社交的な活動を定期的に行う。そうすることで人々がグループになじみ、帰属感を得られるような余白を提供できる。
d) 常に励ましと模範を示す:求道者と親しくする人々の具体的な例を挙げて褒めたり感謝することによって社会的に開かれた精神を浸透させる。説教で取り上げたり、聖書の学びの中で、あるいは一対一での会話でも触れることができる。
2. 半透明の境界線: 閉ざされた共同体では境界線はかなり明確で実質的だ。誰が受け入れられ、受け入れられないかは明白だ。神学的に私たちを社会から、また異なるアプローチで信仰を表明する教会から区別をつけるために、境界線周辺の問題の対処は重要だ。しかし社会的に開かれた共同体では境界線は半透明である。霊的成熟度が異なる人々が、信仰の表現の違いはありながらもキリストへの道を歩もうとすることを受け入れる寛容さを必要とする。そこでは広範囲の多様性と曖昧さがもたらされるため、成熟したリーダーシップによる管理が必須である。
a) 多宗教なあり方: 複数の宗教的背景が集まる中で避けるべきことの一例を挙げる:最近教会で開かれた小グループの集まりで、初めて参加した長年の信者が他の宗教を批判し始めたが、実はその宗教を信仰する人たちも同席していた。求道者が安心して福音を探し求め、現在抱いている疑問や異なる信仰を批判されることのないような開かれた教会は、一見すると多宗教のグループのように見える。聖書の学びは、聖句をめぐって、さまざまな前提が交錯する不思議なぶつかり合いになることがある。それは美しく刺激的なダイナミズムである。求道者を歓迎し、肯定し、疑問を解決するための余白と時間を与えるよう努めたい。
b) 明確な神学的核心: このように多様な信仰背景を許容し、混乱や異端に陥らせないためには、福音についての明確な理解を、絶えず明確に、しかも信者でない人々に対して繊細に伝えていく必要がある。社会的に閉鎖的な教会が神学的境界線をチェックし、画一性を強化する必要があるとする一方、社会的に開かれた教会は、異なる信仰を持つ人々を歓迎することに脅威を感じないほど、自分たちの神学的核心に自信を持つ必要がある。福音は絶えず、都市という文脈における世界観、疑念、信念を創造的に敬意を持って交流できるものとして提示されるべきである。
c) 積極的な牧会ケアと弟子訓練: また、このような多様性に対応するためには、積極的な一対一の牧会的ケアが必要である。その過程で生じる混乱を明らかにし、人々が置かれている具体的な状況に福音を適用し、罪が生じるパターンに背を向け、霊的成熟に向けて次の一歩を促す働きかけが必要である。
3. 包容力のある説教: 社会的に閉鎖的な教会は、劇的な回心を得意とする。危機的状況にある人が感情的な高まりを経験する中で外部から内部へと受け入れられる。しかし、危機に瀕しているわけではなく、むしろ豊かで、比較的現状に満足し、情緒的に安定している大多数の都市生活者にとってはどうだろうか。説教の中で、また教会のあらゆるコミュニケーションを通して、このような人々に届くためには、共感できるようで微妙なニュアンスが伝わる、あるいは少しずつ理解を深められるような語り方の工夫が必要である。
a) 旅路という表現:危機的状況にあって何か劇的な変化に前向きな人々に対しては、「信じる? 信じない?」という断定的なコミュニケーションが有効かもしれない。しかし「今は間に合っている」と感じながらも、新しい視点を徐々に検討することに前向きな人々にこの伝え方は適当ではない。私たちの周りにいる大多数のこのような人々には、福音に照らして世界を再認識することを助ける、キリストに向かう段階的なステップを踏むよう誘うような、旅路といった表現を作り出していく必要がある。旅という言葉は、私たちが今置かれている特定の状態よりも、私たちが向かっている方向に重きを置くものであり、懐疑的な人たちが自分のペースで福音について考える余地を与えてくれる。私たちは、今、どうかという明確な状態よりも、旅をして目的地に向かっているという動きを強調すべきなのだ。
b) 包括的な言葉: 都市に脅威を感じる教会は、「我ら」を高く評価し、「彼ら」を否定するような「我ら対彼ら」のメンタリティを育てる。しかし、まだキリストを受け入れていない人々を包み込むには、私たちの言葉が彼らを招き入れ、尊重し、求道者の不安、恐れ、迷い、距離を置きたいという願望を普通のことだと肯定する必要がある。このような説教は、求道者に帰属感と、私たちも共にこの旅路を歩んでいることを感じさせ、次の一歩を踏み出すよう優しく誘う。それは神学的にも裏付けられ、疑念を抱く人々を尊重し、彼らを愚かで無知で罪深い存在だと感じさせない説教である。
c) 知性という前提:聴衆に知性が無く操作できるという前提があるなら説教者のメッセージははその思いを反映することになる。説教者としての自分の個性の強さ、情熱的な言い回し、感情に訴える逸話、あるいは聖句の権威をもって、人々に圧力をかけ、脅す行為に出るだろう。もし私たちが優越感をもって説教しているなら人々はそれを察する。教養があり、あちこちに旅をした経験を持ち、権威主義的な人物を避けているような都会の人々は、こういったアプローチを即座に遠ざける。しかし、私たちが相手を知的だという前提に立ち(実際そうなのだが!)福音とは何かを検討するように招き、彼らの疑問を認め、異論に答え、決断を尊重するなら、彼らは自尊心をもって私たちに近づけるようになるだろう。もしかしたら私たちは彼らの意志に訴え圧力をかけられる優位な立場を失ったと恐れるかもしれない。しかし実際には彼らとの距離は縮まり、私たちの話はもっと素直に聞かれるようになるだろう。
今日、私たちが未信者の声に敬意を持って耳を傾け、彼らに手を差し伸べようとするとき、私たち自身の福音理解も豊かになるだろう。彼らの社会的な信仰への道は、臨在という神学的カテゴリーの重要性を私たちに思い起こさせる。つまりキリストが私たちのただ中に生きておられ、聖霊が私たちの内に留まり、都市でのクリスチャンの存在が神の統治の代替として具現化された道しるべとなる。レスリー・ニュービギンが思い描いたように、このような臨在の感覚とは、「自分たちの生活に対する内向的な関心を放棄し、社会生活全体に対する神の贖いの恵みのしるし、道具、前味として、信者でない人々のために存在することを認識する地域の会衆」として現れるのである。(4)
キリストにある信仰の社会的側面を回復するということは、私たちのような啓蒙主義の継承者たちが、成熟したクリスチャンに帰属することの重要性を再発見し、キリストと、また互いに属することが、認識する信念や実際の行動と同じくらい、神の民を特徴づけることを思い出させる。思考することや行動することは非常に重要だが、人と人との関係性がある共同体以外でそれが実現することはほとんどない。しかし、私たちの互いへの愛が目に見えるものとなり、その愛がキリストに愛されている人々を包み込むとき、キリストの臨在が明らかにされるのである(ヨハネ13:32)。
[1] Christian Smith and Patricia Snell, Souls in Transition: The Religious & Spiritual Lives of Emerging Adults (New York and Oxford: Oxford University Press, 2009), 56.
[2] Rodney Stark, The Rise of Christianity: How the Obscure, Marginal Jesus Movement Became the Dominant Religious Force in the Western World in a Few Centuries (New York: Harper SanFrancisco, 1997), esp. chapter 4.
[3] Charles Spurgeon, Lectures to My Students (Grand Rapids: Zondervan, 1954) 257.
[4] Lesslie Newbigin, The Gospel in a Pluralist Society (Grand Rapids: Eerdmans, 1989), 232-233.
本記事は以下を許可を得て翻訳、転載しました。
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