本音と建前、遠慮と迷惑文化の中で
イエスは十字架にかかる直前、愛する弟子たちと食事をされました。ご自分の死が近い中で、最後に弟子たちに伝えたかった事。それは互いを愛し合うことでした。
聖書の中、特に新約聖書には「互いに」という言葉がたくさん出てきますよね。新約聖書だけでも100回使われ、特にどのようにお互いに関わるべきか(または関わるべきでないか)というテーマに59回も使われています。互いに何かし合うこと、互いに祈り合う事、互いに支え合うことも、必ず必要なのは「相手」です。私たちがキリストの姿を見習い、そしてそれを実践するためには必ず相手が必要です。神が三位一体のご性質をもち、いつも共同体であられる神が、私たちにも教会という共同体のうちに生きるよう、互いに関わり合うよう、デザインされました。教会のうちにあって、私たちクリスチャンは成長し、この世が経験できない愛の体験を、祝福の体験を、神は私たちに与えてくださいました。
これは神がデザインされた、コミュニティー(共同体)と呼ばれる、聖書的な文化です。ある文化はこの聖書的コミュニティーである教会の性質の一部をもっていますが、完璧に同じではありません。どの文化にも同じことが言えます。例えば、日本は集団主義的と言われてきました。集団の中で生きる時、和を第一に考えます。自分の意思や欲望を抑えてまで調和を重視する文化です。そこには、時に相手の利益、気持ちなどを考えて、自分のことを後回しにし相手を思うという素晴らしい配慮があります。そして、聖書的コミュニティーと共通点のある日本文化の中には、相違点も存在します。例えば、建前、遠慮、人に迷惑をかけない、という文化です。これは一見日本文化の美しい点に見えます。さらに、この国ではそれが「美徳」とされています。
例えば、あなたがぎっくり腰になって動けなくなったとしましょう。そしてこの世の家族が周りにいない独身、または、家族がいても仕事や他の都合であなたをサポートできないとしましょう。そのような時あなたには教会の中で頼れる兄弟姉妹がいるでしょうか? 気軽に連絡し、買い物や面倒を見てもらうため、気を使わず連絡できる方はいらっしゃいますか? 連絡できる相手がいたとしても、きっと躊躇したり、連絡しなかったり… その思いの中の本音は、「私のために時間を割いてもらうなんて迷惑だ」「お願いすることによって図々しい人だと思われるのが怖い」「私に必要があることを人に知られたくない」かもしれません。聖書で神が「互いに」という中には、日本人は特に、お互いに迷惑をかけ合いなさい、それを迷惑だと思ってはいけません、と聞く必要があるかもしれません。
この聖書箇所だけでも3回「互いに」と命じられています。この聖書箇所の中に、遠慮や迷惑を考えるような建前の態度は見られるでしょうか? 教会の中で、クリスチャン同士が建前を常にもち、接しているとしたら… それは教会の中で争いの原因や仲間割れの原因になりかねません。例えば、全く意見や文句を言っていなかったのに急に怒り出す(これは前々から怒っていたが誰も察してくれないので怒りが我慢の限界に達してしまった)ことだとか*、兄弟姉妹の些細な言葉で傷つき、本人が気付いていない場合もあるのに、傷ついた本心を言わずに相手に察してもらえず、ついには教会から離れてしまう場合など、建前があるとギクシャクした教会生活になってしまうことがあるでしょう。建前があり続ける関係は、身内のように親身な関係にはなりません。いつも空気を読みながら本音を探り、和を壊さないように抜き足差し足、ずっと距離を器用に保つ必要があるような疲れる関係になる可能性があります。
もちろん、初対面からこのように親密であるか、と言うとそうではないことが多いです。相手に対して礼儀正しく、敬意を払うような、少し違った愛の示し方があります。しかし、この箇所が言っているのは「互いに」と言うことです。教会の中では、私たちは熱意をもって互いに愛し合うべきである、と聖書は言います。
日本の伝統的な家には必ず家の玄関と、その敷地に入る前には立派な門や塀があったりします。私達の人間関係も同じように考えられます。日本では、内の人、外の人、と言うような表現がありますよね。門の前の道端で会話するのは、知らない人、ただの顔見知り程度、つまり外の人です。そのような人たちには私達の心を打ち明ける必要はなく、丁寧に接する必要があります。次のレベルの人間関係は、玄関先の関係です。この関係は家にあげる(私の本質を知ってもらう)勇気はないけれど、道端で話すよりは距離が近い関係です。関係と呼べる人間関係の大半がこのレベルだと推測します。友人であったり、親戚、同僚やママ友などです。小さい悩みや相談をすることも、されることもある関係ですが、まだ自分の弱さなどを明かす勇気はもてない関係です。このレベルでもまだ内の人とは呼べません。そして次のレベルは、家の中に招き入れる関係です。心のうちの葛藤、自分の弱さ、辛さなどまでうち明けることのできる関係です。この関係にはまず、素直さと謙遜さが必要です。そして最も大事なものは信頼関係です。この関係に進んでいくためには勇気も信頼も必要です。うわべだけの愛する形ではなく、犠牲を伴う覚悟もする関係です。家族のように、お互いの弱さ、弱点も知りながら共に行き、共に嬉しさや悲しさを共有し、赦し合い、支え合う関係です。
パウロはエペソの教会の人たちにこのように語っています。「こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であり、神の家族なのです。…キリスト・イエスご自身がその要の石です。」エペソの手紙2:19、20b 私たちはキリストの血によって買い取られ、赦され、神の家族に招き入れられました。神様が、御子キリストの血によって私たちを家族として結び合わせてくださいました。これが教会のうちの私たちの身分、関係です。そしてこの家族の関係には、友人を選ぶような選択肢はありません。キリストにあって家族とされた私たちは、家族であって、その家族の一員を選ぶことはできません。ただの他人、近所の隣人、仕事仲間との関係ではないのです。パウロはただ、神の家族です、と言うのではなく、もはや他国人でも寄留者でもなく、とわざわざ言っています。他国人や寄留者と、家族の違いについて考えてみてください。
これを生きる、実践するような福音を中心とした文化は、教会の中でどのように自然と作られていくのでしょうか? どのように建前、遠慮、迷惑への恐れを打ち壊していけるのでしょうか。その答えは、私たち自身のうちから福音によって変えていく、変えられていく必要があります。教会のうちの神の家族とは、兄弟姉妹とは、どのように共に生きていくものなのか、模範や示してくれるモデルがなければ、この建前という心構えが染み付いている文化の中に生きる日本人クリスチャンにとって、新しい福音中心文化をどのように知ることができるでしょう。私たちはつい、自分を、自分の所有物を守ろうとしたり、自分を守ろうとしますが、いわばそれは自分の自宅を綺麗に、また豪華に保つため、客を呼ばず、快適に暮らしているようなものです。聖書の与えてくれる模範、モデルはどんなものですか? それは使徒の働き2章に綴られている始めの教会の姿です。”皆一つになって、一切のものを共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配し…心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、賛美し、民全体から好意を持たれていた。” この教会の「家族」のモデルは、物質的なことだけではなく、時間、感情も含めてです。時には犠牲を伴う愛や、間違った道を歩んでいる愛する家族を正す愛かもしれません。時には日本人がわきまえるべき「遠慮」を知らないで、あなたの綺麗な家に土足で入ってくる方もいるかもしれません。そのような関係には犠牲を伴う愛は必要です。
この、聖書的な教会家族の絆を育んでいく中で、私たちにとって一番の励ましは、福音の真理と私達の内に住まわれる聖霊の存在です。日本では「血の繋がった家族」という言い方をしますが、実は他人であった私たち、神の家族も、「キリストの血によって繋がった家族」なのです。福音こそが、私たちにこの今まで他人であった外の人を、家族にする力をもち、互いに愛し合う、赦し合う、支え合う力の根源です。そして私達のうちにおられる聖霊がそれに必要な謙遜な姿勢、忍耐、与える愛を促してくださいます。
あなたの教会での人間関係は、何の共通点もない、お互いの長所も短所も知らない、いつも天気やスポーツなど、うわべだけの話題だけしか話さない関係がほとんどですか? あなたの弱さを打ち明けられる兄弟姉妹はいますか? あなたから門を開き、玄関の扉を開き、内へ招き入れていますか? この世的にいう「迷惑をかける」神の家族に愛を示していますか?
著者
バーンズ知恵
アメリカ、マスターズ大学聖書的カウンセリング 科卒業。名古屋近辺の教会や地域でカウンセラーとして活動。