インターネットの功罪

スマートフォンのフィードをスクロールするたびにはっきりとわかることが2点あります。特に選挙の年は、顕著です。

今年初めにメタモダニズムについて書いた記事で、私はこれを「私たちの文化の現時点における懸念すべき兆候」と捉えました。「多くのメタモダニストは、非論理的な見解を指摘されてもひるまない。自分の立場が矛盾しているという内面的な破綻を気にしていないのだ」と記しました。オンラインでの生活には認知的な不協和音が蔓延しています。しかし私たちはそれをもはや不協和音としてとらえなくなってしまったのです。私たちは内面的な破綻との共存に折り合いをつけました。これがインターネット時代の私たちの生き方です。

第二に、スクロール中心のオンライン生活の最も顕著な特徴として、新しい現象が表れました。それは、私たちの注意を引いたり、行動(クリック、閲覧、視聴、購入)を促す上で最大の力を持っています。それは何でしょうか? 「バイブス」です。

「バイブス」は、私たちの時代の通貨であり、毎分何百万回もあらゆる画面上で発信され、受信されています。「バイブス」の世界は、メッセージよりもミーム、議論よりも美学、正論よりも共感、事実よりも感情、意味よりも気分が重視されます。「バイブス」は流動的で主観的であり、批判や定義に左右されません。「バイブス」を明確に表現したり、再現したり、否定したりすることはできません。

与える側の場合、「バイブス」は部分的にしか制御できません。伝えたい相手の心に訴える「バイブス」を「醸し出す」ために最善を尽くすことはできますが、「バイブス」の魅力はその最もらしさにあり、それを細かく管理して作り出すことはできません。「バイブス」の変化は観察できますが、作り出すことはできません。

したがって、A/B テスト、グループインタビュー、市場調査など何らかの秘策を使って適切な「バイブス」を作ろうとするのは、自滅行為です。いい「バイブス」は、自然に確実にそして偶然があってこそ生まれるものです。意識的にいい「バイブス」を中心に打ち出すキャンペーンは、疑わしい戦略です。いい「バイブス」があると強調しなければならない (「関連性」を自称する)のであれば、すでにそれはいい「バイブス」ではないということになります。

受け取る側の場合、「バイブス」は消費者の行動の原動力です。主観的な感覚、直感、本能的な反応が、注意を向けるか、向けないか、フォローするか、フォローしないか、受け入れるか、拒否するかを決定します。消費者監視のアルゴリズムの世界では、私たちが何者であるか、何を望んでいるかの感覚がますます研ぎ澄まされており、私たちの「バイブスレーダー」は抵抗のための強力な武器となります。私たちは事実確認する能力を失ったかもしれませんが、「バイブス」を確認することはできます。

「バイブス」の勝利は、一般的には良い発展とは言えません。しかし、それが私たちが置かれている現状です。「バイブス」主導の世界で生きるクリスチャンの知恵は、インターネットの構造そのものが私たちをどのようにここに導いたかという認識から始まります。

内面的な破綻のためのインターネット

当初は人類にとって利益とされていたインターネットのオープンソース化と民主化された性質は、結局のところ、啓蒙ではなく、むしろ情報の混沌による「ポスト真実」の世界を生み出しました。常にあらゆる方向から私たちに押し寄せる膨大な情報のほとんどは精査されず、専門家と非専門家、事実と意見、そして人間とAIの間に明確な区別が(ますます)なくなってきています。私たちは自然と画面に表示されるほとんどすべてのものに懐疑的になります。情報過多は、すべての情報を疑わしいものにするからです。

「何でも、どこでも、すべて同時に」というインターネット生活の構造は、なぜ私たちが内面的な破綻に慣れてしまったかに対する理由でもあります。私たちは常に、断片的な情報、矛盾した考え、対立する意見、およびリアルタイムで劇的に変化する物語に次から次へと直面しています(例えば2019年のジャシー・スモレットの自作自演のヘイトクライムや2024年のキャサリン妃をめぐる陰謀論など)。

ビョンチョル・ハンが、「情報の洪水」が私たちの「物語の危機」の原因であると指摘するのは無理もありません。全体像から切り離され、断片の海に泳いでいると、不一致に悩まされたり、気づいたりする能力が失われていくのは当然です。内面的破綻ばかりが目に飛び込んでくると、それは異常として認識されなくなります。

デジタルメディアは「一貫性のある文脈全体の提示を評価しない」と主張するアントン・バーバ=ケイは、「矛盾に関するしたり顔の問題指摘はさほど重要ではなくなっている」と述べています。これが、たとえば2004年のジョン・ケリーの大統領選出馬時ほどではないにしても、今日の政治家が「二転三転する」矛盾を指摘されても傷つくことが少なくなった理由です。バーバ・ケイは、ドナルド・トランプの政治的手腕には「オンラインメディア環境での論理的一貫性はほぼ重要ではない」という認識が含まれていると指摘しています。

実際に、常に変化する意見を乱雑に並べるような荒技が政治家にとって有利に働くこともあります。なぜこのアプローチが機能するかと言えば、ユーザーは何でも見つけたいことを見つけられるし、気に入らないものは都合よく無視できるといったインターネットを模倣しているからです。例えば、私が問題Xに関心があるとします。ある候補者がどこかで、ある時点で、問題Xについての私の見解に賛同していると述べた証拠を見つけられたら、私はその候補者を支持してもよいと思うでしょう(たとえその候補者が他の場所で問題Xを支持しないと言ったり、問題Xと矛盾する問題Yを支持すると言ったりしてもです)。内面的な破綻はインターネット時代の選挙では強みなのです。

首尾一貫した意見よりも重要なのは、説得力のある「バイブス」です。政治家はそれを知っています。彼らには政策方針を伝えることに労力を割く動機がほとんどありません。まさにこれは最近のテレビで放映される大統領選挙討論会で十分に明らかになっています。討論会が有権者の心を少しでも動かすとしたら、それは政策の内容によるのではなく、有権者に特定の「バイブス」が共鳴または反発したからでしょう。

今やすべては「印象」次第

「バイブス」の高まりは、情報洪水の中で私たちに課せられた、圧倒的な認知的要求への反応でもあります。たとえ私たちが情報の一貫性にさほど懐疑的でなかったとしても、私たちの脳が処理するには情報量が膨大すぎます。(集団的に)バイブスに従うのは、私たちが精神的疲労に対処するためのメカニズムなのです。というのも個々の主張を調査したり、すべての矛盾を整理したりする時間も能力も無いからです。私たちが「何かを感じている」かどうかは、「何かを完全に理解しているか、同意しているか」をよりもずっと簡単にわかります。1世紀以上前に T. S. エリオットは、「知らないとき、または十分に知らないときは、私たちは常に考えを感情で置き換える傾向にあります。」と述べています

広告主や政治家は、私たちが精神的に疲れていること、注意を向けるのがますます難しくなっていること、そしておそらく疲れすぎて何かを最後まで読む (または見る) ことができないことを知っています。そのため、彼らは知性に訴えるよりも、情に訴えるような一瞬の印象に注目します。つまり、私たちのフィードの中で目立ち、1 秒でも長く閲覧されるように促す写真、私たちに知ってほしいことすべてを伝える感情的な見出し、そして私たちがふと手を止めて見ずにはいられない刺激的な言葉や画像を用います。

「クリックベイト」という言葉はもはや時代遅れです。今では広告主は私たちの心に何かしらの印象が残っていれば満足なのです。それが時間の経過とともに客として私たちに消費行動を促す可能性があることを知っているからです。かつては、「リーチ」と「クリック」がオンライン広告の成功の主な指標でしたが、今は印象です。そして印象は、物や議論で作るのではありません。「バイブス」で作るのです。

これがどのように作用するかオンラインデートを例に考えてみましょう。オンラインデートは明らかに印象とバイブスに動かされる世界です。独身の男女は、TikTokやXをスクロールするのと同じくらい素早く、将来のパートナー候補の選択肢をスワイプします。当然、左にスワイプするか右にスワイプするかの違いは、プロフィールが一瞬で与える表面的な印象によります。独身者は、結婚相手候補の価値観や信念を注意深く調べながら候補者を絞るようなことはありません。「バイブス」で判断するのです。その人のプロフィールを見て、「ポッ」とするか、それとも「ゲッ」と感じるかどうかといった具合です。

「ゲッ」が新しいスラングとして台頭してきたことは、「バイブス」時代の証拠です。デートで「ゲッ」反応が正確に何であるかは言葉で表現できません。それは単に、逃げ出したいという本能的な衝動を感じるという感覚に過ぎません。デートの世界以外にも、「ゲッ」と思う類のものはおそらく存在します。それは、普段は好きな人がソーシャルメディアで嫌いなことをしたり言ったりしたときに反発するような反応です(例えば、友人が不快な政治的な投稿にInstagram上で「いいね」しているのを見て驚いたといった場合など)。「ゲッ」という反応は、フォローを解除したりミュートしたりするのに十分な場合があります。

例は数多くあります。最近の動画で、大学生のナイマが中絶についてチャーリー・カークと議論している場面を考えてみましょう。ある時点で、カークはナイマに「胎児」の定義を尋ねますが、ナイマは少し慌てます。彼女は答えずに、カークの笑顔が「気味が悪い」と、すぐに雰囲気重視のコメントに切り替え、観客から拍手が起こります。これは短いながらも示唆に富む瞬間であり、「ゲッ」という嫌悪感のもつ修辞的な力を明らかにしています。自分の主張が通らない場合、私たちは、対話者の外見、口調、知性、年齢(「いい年して」)などから感じられる良い雰囲気や悪い雰囲気に訴えるのです。これは、雰囲気に左右されがちな世界ではますます効果を発揮する、議論を回避する手段です。

「バイブス」に支配された世界における知恵

「バイブス」に支配された世界で、クリスチャンとして賢明に生きるにはどうすればよいのでしょうか?

その鍵の一つは、「バイブス」や「第一印象」がいかに人を欺くかということに対する認識です。私たちは、自分自身の印象を分析し、一過性の認識が正しいかどうかを自問する必要があります。これは、昔から言われている「外見で判断するな」というアドバイスと同じです。容姿に惑わされる愚かさに陥ってはいけません(サムエル記上16:7箴言31:30を参照)。

私たちは自分の印象を監視するために、ペースを落とす必要があります。何かをクリックする前に、なぜクリックしているのかを自問してください。印象と行動の間にほんの少しの摩擦を加えてください。こうすることで、愚かに騙されるか、賢明に見極められるかの違いが生まれます。刺激が過剰で認知能力が圧倒的な現代では、知恵が、スクロールしながら「クリックするかしないか」判断することを助けてくれます。

箴言 26 章が、愚か者 (日常的なフィードにどこにでもいる人々) にどのように対応するようアドバイスしているか見てみましょう。一見すると、このアドバイスは矛盾しているように見えます。4 節には「愚かな者にはその愚かさに合わせて答えるな。あなたも彼と同じようにならないためだ」とあります。5 節には「愚かな者には、その愚かさに合わせて答えよ。そうすれば彼は、自分を知恵のある者と思わないだろう」とあります。どちらが正しいのでしょうか。ソーシャルメディア上で誰かが明らかに愚かな言動をとった場合、私たちは声を上げるべきでしょうか、それとも黙っているべきでしょうか?

箴言 26:4–5 は矛盾しているというよりは、知恵の状況に応じた微妙なニュアンスを指摘しています。知恵はある一瞬を評価し、正しい方法で対処します。知恵は型にはまった規定というよりも、機敏で柔軟です。知恵は、神の真理と全体的な一致を保つための源泉であり、私たちの言葉(言うことと言わないこと)、行動、および(「バイブス」の世界で重要な)直感に表されます。

では、「バイブス」の世界で誠実で真実でいるためには自分自身をどのように位置づければよいのでしょうか? 知恵を養い、それによって魂を養ってください。誠実さを大切にし、知恵を身に付ける習慣を強めてくれる人たちで周りを固めましょう。「バイブス」が支配する世界で弟子として霊的な課題を乗り越えていくには、今後、より具体的な戦術が必要になります。しかし、聖書の知恵以上に十分なものは決してありません。まずは聖書から始めましょう。

編集部註:この記事はThe Gospel Coalitionの以下の記事を許可を得て翻訳、転載したものです。https://www.thegospelcoalition.org/article/internet-vibes-arguments/

著者:ブレット・マクラッケン

ザ・ゴスペル・コーリション(TGC)のシニアエディター兼コミュニケーションディレクター。著書に『The Wisdom Pyramid: Feeding Your Soul in a Post-Truth World(知恵のピラミッド:ポスト真実の世界で魂を養う)』、『Uncomfortable: The Awkward and Essential Challenge of Christian Community(居心地の悪い場所:キリスト教コミュニティにおける厄介かつ不可欠な課題)』、『Gray Matters: Navigating the Space Between Legalism and Liberty(グレーな問題:律法主義と自由の狭間を生きる)』、『Hipster Christianity: When Church and Cool Collide(ヒップスター・クリスチャン:クールと教会の出会い)』など。妻のキラ、3人の子供たちとにカリフォルニア州サンタアナ在住。サウスランズ・サンタアナ所属。XInstagramでも発信している。