福音について考えるとき、何を思い浮かべるでしょうか? それは単に救いの方程式、つまり天国への切符のようなものでしょうか? それとも、私たちの存在全体がどのように形づくられたのかを紐解く物語でしょうか? 信仰に生きようとするクリスチャンにとって、福音を単なる過去の出来事としてではなく、今も生き生きと繰り広げられる物語として理解することは極めて重要です。この理解は、自分自身、世界、そして神との関係に対する見方を変えるからです。
キリストの贖いのわざは十字架上で完結しますが、キリストの物語はそこで終わったわけではありません。私たちは福音を「2章から成るもの」という不完全な枠組みで捉えがちです。つまり、私たちは罪人であり、イエスは私たちの罪のために死なれた、という捉え方です。しかしこれは福音の表面をなぞっているに過ぎません。私たちがもっと理解する必要があるのは、天地創造、堕落、贖い、刷新、回復という「5章から成る」福音の枠組みです。それは神がこの世界で行っておられる働きを十分に理解し、その働きに関わり、また人生の困難を恵みと敬意を持って捉え、乗り越えることができるようになるためです。
天地創造と堕落:私たちの起源と欠陥を理解する
福音の物語は天地創造から始まります。創世記1章は、神によって「非常によい」と宣言された世界が創造された詳細を述べています。神に似せられて創造された人間は、神と被造物とが完全に調和した状態で暮らしていました。しかし、人間の反抗によって罪が世に持ち込まれたことにより、この完璧な状態は堕落によってすぐに損なわれました(創世記3章)。結果、神と人間との関係が壊れただけでなく、苦しみ、痛み、死がもたらされました。これは今でも私たちが経験している深刻な破綻という状態です。
私自身も、この現実を身近に感じさせる個人的な苦悩に直面したことがあります。病気で苦しんでいた親しい友人の死は、善であるはずの神の存在を打ち消し、まるで苦悩の最前列席に座らされたような経験でした。この経験を信仰とどう調和させればよいのでしょうか? 単純な2章から成る福音という当時の私の考えでは、ほとんど慰めが得られませんでした。その状況を理解できる助けになるような、より深い聖書の真理を私は見逃していたのです。
贖いと刷新:現在の力を経験する
福音の核心は「贖い」です。パウロは「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです」と書いています(ローマ人への手紙3:23-24)。イエスは、この壊れた世界に来られ、苦しみを受け、死なれました。その復活は、私たちに赦しと新しい命を保証しています。
しかし、多くのクリスチャンはここで立ち止まり、福音を過去の出来事として扱ってしまいます。でも私たちは、福音による刷新という物語を受け入れる必要があります。パウロが言っているように、「被造物のすべては、今に至るまで、ともにうめき、ともに産みの苦しみをしています。それだけでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだが贖われることを待ち望みながら、心の中でうめいてい」るのです(ローマ人への手紙8:22-23)。 私たちはキリストの復活の後を生きていますが、神の国が完全に実現するのはこれからです。神の国の「すでに、でもまだ」という段階では、完全な回復を待ち望んでいる間でさえ、神の御霊が私たちを積極的に刷新し続けてくださっているのです。
例えば、葛藤について考えてみましょう。人間関係がぎくしゃくすると、2章から成る福音は失敗や偽善の感情を呼び起こします。「私はこんなに悪い人間だ。葛藤を経験しているのだから。私は葛藤を隠そう。葛藤が続くとしても、自分の内面での戦いが続くとしても」と考えます。しかし、5章から成る福音の枠組みは、私たちが調和のために創造され、恵みによって徐々に新しくされていくことを思い出させてくれます。「私は調和の中で生きるために創造された。しかし、人間の罪の結果、分裂と葛藤を経験する。イエスは、私を神とそして互いに和解させるために死なれた。私たちは皆罪人であり、恵みによって救われる。イエスが私に対して示してくださった恵みに感動したように、私も同じ恵みを他の人々に与えることができる」と。私たちはいつか究極の平和が訪れることを信じて、身の回りのあらゆるものを刷新する働きに関わるよう定められているのです。
回復:未来の栄光を期待して
最後に、私たちは「神の物語」の集大成である「回復」に到達します。そこでは神の国が「天で行われるように地でも行われる」ようになるのです(マタイ6:10)。聖書全体を通して、この未来の断片が垣間見られます。神が人類とともに住まわれる新しい天と新しい地、そしてそこは「もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない」(ヨハネの黙示録21:4)世界です。
この完全な福音の物語に照らして自分の苦悩を振り返ってみると、試練や苦しみはこの世の一部ではあるものの、それらがすべてではないことがわかります。神の約束は確かで、神はご自身を愛する人々のために、すべてを益として働かせてくださいます(ローマ人への手紙8:28)。物語の結末を知ると、それは現在の試練を乗り越えるための信仰を育み、今この時に神の福音による刷新の代理人として行動する力を与えてくれます。
福音を完全に生きる:実践的なアプローチ
福音を5つの章に分けて考えることは、私たちの生き方や他者への奉仕に大きな影響を与えます。
創造:神の意図されたデザインと目的を認識する。人間関係、仕事、世界全体に対する神の本来のデザインを考慮しながら状況を評価する。
堕落:罪の影響を理解し、正直に悔い改め、赦しを求める。この認識は、傷ついた状態と闘う他者に対する同情にもつながる。
贖い:キリストの贖罪のわざー赦しと義認ーを信じ、私たちの葛藤を聖化への道筋と捉える。
刷新:私たちの周囲で今も続く聖霊の働きに積極的に参加する。神が私たちを通して、また私たちの中で働いておられる中で、個人的、共同体的、文化的にあらゆる状況に関わる。
回復:完全な回復を期待し、そのビジョンを希望の拠り所とし、従順と誠実さの動機づけとする。
このように福音を捉えると、私たちの神学と現実に一致をもたらす助けになります。福音は、目前の苦難を乗り越え、希望を持ってそれぞれの課題に取り組むためのレンズを提供し、神の目的が必ず成就されるという確信を私たちに与えてくれます。個人的な葛藤、キャリア上の課題、あるいはより広範な社会問題に対処する際にも、福音は私たちが神の贖罪の歴史という壮大な物語に織り込まれていることを確かにしてくれるのです。
福音は単なる個人的な救いのメッセージにとどまらず、すべてを再構築することができる究極の物語です。福音の物語全体を受け入れることで、私たちは神による継続的な刷新の使命と歩調を合わせることになります。私たちは、すべてのことが成就するのを辛抱強く待ちながら、自らの人生のあらゆる側面が神の贖罪のわざに織り込まれていることを理解し、意図的に神の国の参加者となるよう招かれています。この5つの章から成る枠組みの福音を通して、新たな確かさ、深い平安、そして、私たちが共有する巡礼の旅の「すでに、でもまだ」の瞬間を信仰を持って歩むための具体的な行動指針を見出すことができるでしょう。
実践的なストーリー:
世界中の牧師や聖職者のケアを専門とするキリスト教カウンセラーのインタビューを見たことがあります。彼女の説明によると、多くが怒りの問題、ポルノやアルコールへの依存、うつ病に苦しんでいるとのことでした。彼女の基本的なアプローチは特に彼らの幼少期や生育環境に焦点を当てて、クライアントの過去を探るというものです。しかしそのようなアプローチは拒絶されることが多く、それはクライアントが「イエスの血によって過去は赦され、清められているので、過去を振り返る必要はない」と考えるからだそうです。 現代の多くの牧師や指導者が、福音をこのように誤って理解し適用しています。本来なら、神の恵みと赦しにより恥や罪悪感から解放され、隠された痛みや罪と向き合うことができるし、そのための勇気が与えられるにもかかわらず、実際のところ彼らは「すでに赦され、清められていること」を言い訳にして、人生の痛みや挫折から逃れようとしているとのことでした。
つまり福音を過去ではなく現在だけに適用しているのです。また、多くが現在の苦しみや世界の混乱から目を背け、未来に逃げようとしたり、キリストが再び来られる時にのみ可能な完全な神の王国を今、目の前の現実にもたらそうと努力します。彼ら牧師たちを通して神が教えるので、人は痛みや苦しみから解放され、成功し、富と健康に恵まれればよいという誤った信仰を持っているのです。 このような見方は、いわゆる「繁栄の福音」と呼ばれるものです。福音のレンズは、私たちを盲目にしたり、過去や現在から逃避させたりするのではなく、過去と現在を明確かつ包括的に見通す視野を与えてくれます。
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著者:CTCJ共同執筆チーム
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