福音に焦点を当てる 

福音とは何でしょうか。福音は単に私たちが信じる教理を説明するためのものだけではなく、生活のあらゆる側面を再構成するほどの力強さを持っています。それなのに多くの人が福音を狭い視点で捉えがちです。福音の全体像を把握できると、神学的視野が広がるだけでなく信仰も息を吹き返します。福音をただ理解するだけでなく生活の隅々にまで浸透させられるからです。

福音は教理や教義の具体的な原則だけではありません。それは人生を作り替えるような力に満ちた物語です。テサロニケ人への手紙第一1:4-5で、パウロは、福音がテサロニケの人々に単に言葉としてではなく、力と確信をもって伝えられたと述べています。コロサイ人への手紙1:5-6と比較すると、福音が実を結び、増殖していくことが分かります。福音は静的でも受動的でもなく、変革をもたらします。

福音は過去、現在、未来全てを包括する

福音の広がりを理解するためには、それがキリスト教信仰の入門ABCというだけでなく、キリスト教信仰の全体、つまりAからZまでと捉える必要があります。福音は過去、現在、未来の現実全てを包括しています。ローマ人への手紙1:16でパウロは「福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です」と述べています。フランシス・シェーファーによると、この救いは全体的であり、義認を与え、聖化を促し、栄光を約束するものです。福音は、キリスト教の信仰への入り口であるだけでなく、キリスト教信仰の成長のために必要な本質でもあります。

福音に関して重要な要素は3つあります。それは、イエスの到来、イエスの死、そしてイエスの復活です。このうちのどれか一つでも取り除いてしまうと福音は台無しになってしまいます。私たちに神の義をもたらされるためには、罪のない完全な人生が必要です。神の怒りが鎮められるには、誰かが自分の身代わりとして十字架で死ぬ必要があります。そして私たちが死から救われるためには、復活が必要です。しかし、ほとんどの人が福音を過去形、現在形、未来形のいずれかで表現する傾向があります。例えばある人は福音を人類のための良い知らせとして、またある人は宣べ伝えるべきものとして、またある人は力を与えるものとして捉えます。しかしそのどれもが福音なのです!

救いを経験する過去、現在、未来

例えば、神が人類を罪の力から解放してくださっているという点を上手に強調できないと、人々は自分の努力によって成長しようとします。結果、キリストが与えてくださる喜びや自由を見逃してしまうかもしれません。すると福音を伝える必要性は感じなくなるでしょう。あるいは、過去形の福音がぼやけてしまうと、人々は自分の救いを疑い、罪悪感や羞恥心に圧倒されたり、宗教的な活動によって自分を救おうとするかもしれません。また、教会の中には、恐ろしい不正や苦痛と向き合っている人々もいます。すべてをいつか正してくださるという神の約束と宣言がなければ、彼らは自分自身のために、神など頼らずに自らが行動を起こして正義を勝ち得なければならないと感じるかもしれません。

例えばあなたがカウンセリングをしている相手は、放火や強盗致死などの犯罪被害を受けたという壮絶な過去や経験があるとします。報復に燃えるその人の行動を制止するためにはどんなことができるでしょうか?「暴力は何も解決しない」と言いますか? だとしたら、あなたは正義というものを全く熟考できていません。正義は福音の中でも重要な側面です。今すぐ正義が示されてほしいという衝動に対して、まず何が確実な力となるでしょうか。究極的に言えるのは、生きる者と死ぬ者を裁き、すべてについて最終的な正義を示す神を信頼することです。福音の未来形は、報復を求める気持ちを静め、忍耐し続けるるために必要な希望を与えるのです。

福音があなたのうちに住むように

コロサイ人への手紙3章16節には、「キリストのことばが、あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい」とあります。コロサイ人への手紙に関する解説を読めば、「キリストのことば」は「福音」と同じ意味です。パウロは「福音に住みなさい」とは言っていません。「福音があなたがたのうちに住むようにしなさい」と言っているのです。それは例えば体の免疫機構を活性化させるような細菌を体内に招き入れるようなものとも言えます。ティモシー・ケラーは次のように書いています。「コロサイ人への手紙3章16節は文字通り、福音(キリストの言葉)が『あなたがたのうちに豊かに住むようにしなさい』と述べています。これは、あなたの内面と人格が福音によって形作られるべきだということです。あなたがすることはすべて、『福音の真理に沿った』ものでなければ」ならないのです。

福音は毎日自分自身に語るものです。そのように私たちは自分の霊的な近視と戦っています。ローマのクリスチャンたち(彼らの信仰は有名でした)のように、私たちは福音に触れ続けなければなりません。福音は私たちを新しくし、つくり変えてくれるからです(ローマ人への手紙1:8、15参照)。福音は、それまで無信仰だった人の人生を変えることができます。それと同じように信仰者である私たちの人生をも変えることができます。ローマ人への手紙1章16-17節は、このことを簡潔に要約しています。福音は単なる入門書ではありません。神が私たちを疎外された状態から贖いへと導き、神の存在という完全な状態へと導いていてくれる信仰の生活そのものなのです。

福音のレンズを受け入れる

ローマ人への手紙3章23-24節によると、本来私たちが受けるべきであった罰をイエスが代わりに受け、神の怒りに苦しまれました。イエスは私たちの罪と罰を受け、私たちはイエスの完全な義を受けました。これが私たちが祝うべき福音です。私たちは天の父の前で美しく、喜ばしい存在となりました。しかしそれが私たちの日常に具体的にどのような意味があるかと言うと、神はもはや私たちには怒っておらず、失望もされていないということです。その怒りと失望はどこへ行ったのでしょうか? それは十字架の上に消えました。

残念ながら、多くの信者はこの贖いの教義を十分に喜び、受け取ることができません。目を覚ますと罪悪感を感じながら一日を過ごし、眠りにつくときには神に失望されていると感じます。イエスが神の怒りを完全に宥め、私たちに神の変わらぬ愛と恵みを与えてくださったのだという事実を見失っています。

ですから人間の心にある本当の問題は、神の存在を信じていないことではなく、神を信頼していないこと(神の愛と恵みを信じていないこと)なのです。イスラエル人のように、私たちは心の奥底で「主は私たちを嫌っている」と考えてしまいがちです(申命記1:27)。神が私たちにしてくださったことすべてにもかかわらず、神は私たちを助けてくれないだろうと考えてしまうのです。福音の真理を、思考と言葉と行動の全てで受け入れると、そこにあるのは福音によって形作られた人生と働きです。福音を十分に理解すると、私たちは、創造主ではなく、自分の働きに結びついた誇りとアイデンティティを強めることから解放されていくのです。

日本人牧師のための実用的なストーリー/実例

私がクリスチャンとなり、カリスマ教会やメガチャーチの世界で成長するにつれ、私のキリスト教信仰の成熟度は「神と教会にどれだけの実を結んだか」で定義されることが多くなりました。 もちろん福音は私たちの救いと信仰の土台ですが、私はそれをキリスト教の基本だと考えていました。

しかしある日、福音に対するそのような理解は非常に有害で危険であることを痛感しました。私が神と教会に仕えるために尽くした努力が認められ賞賛されていたにもかかわらず、一生懸命働いていた教会から追い出された私は恥を感じ自信を失いました。その時、私のアイデンティティは、十字架上でキリストが私のためにしてくださったことではなく、神と教会のために自分が何をしたかによって定義されているのだということに気づきました。キリストが私のために死なれ、私の罪を赦してくださったと信じていたかもしれません。しかし、私が送るべき人生をキリストが送ったとは信じていなかったのです。ましてやキリストの栄光のために私が何かを成し遂げる前に、キリストがすでにその完全な義を私に与えてくださったからこそ、キリストが受けるべき素晴らしい人生を私が生きられると信じていなかったのです。

コリント教会の人たちは彼らの信仰の成熟度が誰の教えに従うかによって特徴づけられていたために叱責されました。同じように、私のアイデンティティは、魅力的な説教や、小グループや教会をどれだけ大きくできるかといった、私の業績や結果によって特徴づけられていました。ティム・ケラーはよく、「福音とは、イエス・キリストがこの世に来られ、私たちが生きるべき人生を生き、私たちが死ぬべき死を死なれたことである」と述べています。私はこの言葉の最後の部分を実践してきたかもしれませんが、前半の部分を理解し実践することはできませんでした。同様に、福音は私たちの罪、世界の破滅、神の怒りに関する真実でもありますが、福音の「愛」の側面だけを強調する人もいるように、私たちは福音を全体的に実践できないことがよくあります。私たちは福音の豊かな側面すべてにおいて成長するために、絶えず学ぶ必要があります。

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著者:CTCJ共同執筆チーム 

2025年よりCTCJでは新しい試みとして、日本の都市開拓伝道の分野でのソートリーダーを目指すことをビジョンとして掲げました。共同執筆チームはその試みの一つです。主にスタッフを中心とし、多様な背景を持つ複数の執筆者・編集者が協力し、福音を土台、また中心とし、教会開拓者に役立つトピックに多角的に取り組み、一つの記事をまとめるチームです。