これまでに彼の著書の邦訳を何冊か担当した私は、自分のことをまるで毎日劇場に足繁く通う人のようだと思ってきた。観客として最前列に座っているだけでなく、スタッフとして舞台袖に隠れて彼の稽古や演技を見たり、あるいは舞台裏で音響システムやスポットライトを必死にチェックしたりする。観客が舞台上で起こっていることを観て、あんなにも息を呑み、ため息をつき、笑い声をあげ、にやりとし、あるいは涙を流すのはなぜなのだろう?と、それを理解するために私は文字通り劇場中を走り回ってきた。
実際には、彼の説教を会場で聴いたことは一度もない。でもその著作を読むだけで、ティム・ケラー牧師の力強いパフォーマンスは、福音とこの世界の現実を結びつけるために、たゆまぬ挑戦と好奇心をもとに、彼が一貫して続けてきた調査、研究、実践の結果だということは容易に想像ができる。彼が著書で紹介すれば、どの映画も観たし、本や小説ならすでに日本語訳がないか探した。そういうストーリーは福音とこの世界との結びつきに気づかせてくれるものだからだ。そうするうちに彼のこの探究は一体どこまで続くのだろうと不思議に思い始めた。というのも、ひとたびそういったストーリーが「良い知らせ」つまり福音を観客の前に照らし出し、大胆にその姿を浮き彫りにすると思われると、彼の探究は決して終わらないように見えたからだ。
名優と言われる人なら誰でもそうかもしれないが、2020年に『センター・チャーチ』日本語版の序文を提供するという難役をティムは快く引き受けてくれた。「日本への福音プレゼンター」という役を演じるために彼が一体どのような役作りをするのか私は興味津々だった。衣装を着物にしたり、柔術を習ったりするような表面的な役作りはかえってこちらの方が気まずくなると思っていたが、彼は小林一茶の俳句を選び、こう説明した。
The world of dew
is the world of dew.
And yet, and yet –
露の世は
露の世ながら
さりながら
最初の二節は苦しみに対して仏教がとるアプローチを見事に集約させている。露のしずくのきらきらとした美しさは、しかし、儚く、つかの間のものだ。ほんの一瞬見えたかと思うと、池にしたたり落ち、湖や海に流れていき、存在は無くならないが一滴としての個性は失われる。 子供たちを失った一茶は、仏教が苦しみに示す答えは、その苦しみから自分を分離させることだと知っていた。 子供たちが実際は個々の人間ではなかったというのではない。むしろその個々が集まり、一つの魂の一部となることを忘れないようにすることだと。
だから仏教徒であれば、執着を手放さなければならない。しがみついてはならない。愛を乞い求めてはいけない。ただ、私たちは皆、大河の一滴なのだ。まさに露の世だ、そうだけれども、だけれども…。彼の悼む心は、わかってはいるけれど、そこに憩いを見つけることがどれほど難しいかを認識している。
ティムのこの序文を訳すために私は久しぶりに小林一茶について調べた。 そして一茶の生涯を貫く苦悩に満ちた長い旅路が、とても悲しいものだったことを思い出した。この著名な俳人は、苦しみに向き合うためにはすべての執着を手放すように暗示する、日本的な価値観の背景に存在し大きな影響力をもってきたが、ティムは逆に私たち日本の読者に、はっきりとしかし優しく福音の真理をこう語る。
キリスト教が示すのは第一に、あなたへ贈られた神である。神はこの世界に来て、苦しみを受けた。このように語る宗教は他にない。キリスト教では神はイエス・キリストという人となり、この世界に来て苦しみ、私たちのために十字架で死なれた。これは神が人であることを示している。それは、ほかのどんな宗教や世界観にも見られない、イエス・キリストとして不正な苦しみを経験した唯一の神である。ゲツセマネの園でのイエス・キリストを、十字架でのキリストを思い出してみよう。彼は叫んでいる。叫んでいるのである。ストイックに不正を耐え忍んでいるのではない。クリスチャンの信仰は、不正な苦しみが現実だと示す。私たちの神は、私たちがどんなところを通って来たのか知っている。
実際、愛する人を失うと、再会したいと願わない日はないほどである。‥その嘆きははかりしれない‥しかし、だからと言って愛するのをやめるわけではない。その人たちから距離を置くのでもない。愛情が薄れるのではない。むしろ、あなたの愛する人が愛の神のもとにあるからこそ、耐えられるのだ。愛の神がいるなら、死を迎える時、あなたもその愛の世界の一部になる。そして愛する人たち、神ご自身とともにいられるようになる。だからキリスト教は、将来の個人的な愛を約束する。‥
つまり、この地上であなたが失うどんな愛にも、イエス・キリストへの信仰を通して未来への愛がある。その約束は手が届くところにあり、同時に想像を超えるような約束である。
名優ティムのあの素晴らしい演技を観ることはもうできない。これからもあの探求を続け、深い洞察力を発揮してほしかったのに。心が突き刺さされるような数多の言葉で、日本文化や福音に対して私がもっと謙虚になれるようにしてほしかったのに。でもこうも思う。これからも彼のあの力強いパフォーマンスは生き続けると。私たちがそれを彼自身のセリフとしてではなく、私たちの創造主による「良い知らせ」そのものとして受け取っていくなら、この日本という場所でさえも、想像を超える約束であり続けると。
著者:廣橋麻子