以下は、シティ・トゥ・シティの「How to Reach the West Again(再び西洋に福音を伝えるには)」ポッドキャストのピート・ニコラス牧師へのインタビューからの抜粋です。ニコラス氏は、この対談の中で、福音と現代思想およびポストモダン思想を比較対照し、真理という土台のみが解放された確かなアイデンティティをもたらすことができることを示しています。
ブランドン・J・オブライエン:学業と職歴についてお聞かせください。あなたは哲学、政治学、経済学、産業関係学の学位をお持ちです。そういう学び(神学の修士号取得と併せて)が、あなたが現在行っている宣教活動の準備としてユニークな背景になったと思うのですがいかがでしょうか?
ピート・ニコラス: 私はオックスフォードで学ぶ機会に恵まれましたが、その当時はまだクリスチャンではありませんでした。 哲学、政治、経済を学んでいたわけですが、そのような分野を学んでいた大きな理由として言えるのは、私がかなり理想主義的な人間で、人生の大きな疑問に対する答えを求めていたからです。オックスフォードで学べることの恩恵は膨大な量の文献を読めることです。そこで私は世界の偉大な哲学者についてほとんど調べましたが答えは見つかりませんでした。早い話、勉強して3年目の終わりの最終試験の頃になると、私はかなり幻滅してしまいました。
調べるうちに哲学者や思想家の偽善を何度も目にしました。それは個人的なレベルでもあり、また彼らの哲学体系が首尾一貫していないことなどから感じるレベルでもありました。それが私がキリスト教に興味を持つようになったきっかけです。クリスチャンの友人たちが、人生の疑問に対する答えを求めるならキリスト教を検討するよう私に勧めてくれたのです。
私は神を知ることができてとても感謝しているのですが、そのそもそものきっかけは疑問を抱き、労使関係や人事管理などを理解しようとしたことでした。言うまでもなく、神は真実なお方ですから疑問を投げかけてみるのは真実を明らかにするための素晴らしい方法です。
私たちはロンドンで教会を運営しています(当時)が、教会でも自著でも、皆さんに「まず好奇心を持ってください。質問してください。それが真実であれば、精査に耐えるものですから」と伝えています。たとえそれが真実でなかったとしても、良い質問をすれば真実ではなかったことが明らかになります。ですから、私たちは質問を恐れてはなりません。質問をまず机上に並べてみて欲しいのです。
好奇心を持ってください。質問してください。もしそれが真実であれば、精査に耐えるものです。
BJO: あなたの最新刊『A Place for God』では、西洋文化に浸透している世俗的な物語の限界を明らかにするキリスト教批判理論について語られていますね。その本を書かれたきっかけは何ですか? また、どの質問を取り上げ、それらにどう答えるかをどのようにして決められたのですか?
PN:私は人々の疑問に答えることに情熱を持っています。特に、福音がその疑問にどう応えるのかを、人にわかりやすくするのが好きです。しかも答えを単純化するのではなく、解決策を見出すような方法で助けたいのです。世代によって異なる疑問があるのも興味深いです。(実際、私の修士論文は世代間の価値観の相違とそれが文化に与える影響についてでした。)
15年ほど前から英国で若い世代の人々に対してもっと説得力を持ちたい関わり始めたとき、文化の風向きが変わったように感じました。ミレニアル世代やジェネレーションZ世代が前面に出てきて、それ以前の世代とはまったく異なる価値観、すなわちまったく異なる一連の疑問を抱いていたのです。もはや神の存在を前提とする人はいませんでした。「神にとって十分な善とはどの程度なのか?」といった質問から始めたりしないのです。そんな質問をしたら、「どの神について話しているんだ?」とか「なぜ神について話しているんだ?」と首を傾げたことでしょう。
ほぼ同時期にTED Talksが評判になり始めたので、私はそういった大きな疑問やテーマについて独自の講演を始めました。私たちはどこから来たのか? 私たちはどこへ向かっているのか? どうすれば幸せになれるのか? どうすれば世界をより良い場所にできるのか? 成功こそが生きがいなのか? アイデンティティはどうなのか? これらの講演は人々の心に強く響きました。もちろん、聖書が広く扱っているテーマでもあります。
この本に盛り込まれた内容に関しては、英国の「フォージ・リーダーシップ」という団体が、さまざまな分野のミレニアム世代のリーダーを対象に、彼らが情熱を傾けている大きな問題について調査していた研究結果を参考にすることができたことは幸運でした。そこからどの質問を取り上げるべきか検証した結果、本の中心となる章ができあがりました。
BJO: 私が成人した頃、時代はいわゆる「エヴィデンス・ベース」から、実存的なもの、つまりより個人的な葛藤へと移行しました。そこでは客観的に検証可能な外の世界の現象ではなく、個人的な葛藤や思考の流れと、自分自身をこの世界でどう捉えるか、その二つがどう交差するかが問われます。 あなたの本におけるアプローチは、この変化を真剣に受け止め、新しい形の弁明の会話の可能性を提示しています。
PN:鋭いご指摘ですね。世代間の変化の中で、(聖書に対する)「それは真実なのか?」という問いに対する変化も起こっています。若い世代は、主張を裏付ける事実や証拠を求めているわけではありませんし、それが間違っていると言うわけでもありません。もちろん、証拠はたくさんありますが、それだけで聖書が私たちを説得しようとするわけではありません。心と精神と魂と力を尽くして神を愛せよと命じられている私たちは人間として、そういった様々な能力をすべて使っています。真実は重要ですが、それだけが使うべき能力であるとか、関わるべき唯一の分野だというわけではありません。
若い世代は特に、自分がどう心動かされるかという実存的な動力に強い関心を持っています。ブランドはこれに焦点を当てています。映画もこれに焦点を当てています。芸術もこれに焦点を当てています。何かについての美的感覚を考えてみましょう。それはどんな感じがしますか? 美しいですか? 魅力的ですか? 同様に、思想体系の魅力は、その体系を実際に経験した体験があってこそ非常に重要なものになります。それはどのように機能するのでしょうか? それは私たちの生活に違いをもたらすのでしょうか? こういった分野で、私たちクリスチャンが真の文化的偏見を持っていることに気づくのは難しいと思います。私たちは「真実こそ人を説得するのではないのか」と思うかもしれません。聖書に立ち戻ってみると、よい生き方、人生の重要性を見出します。
思想体系の魅力的な部分は、その体系の経験的な側面とともに、非常に重要です。 それはどのように機能するのでしょうか? それは私たちの生活に違いをもたらすのでしょうか?
実際それこそ弟子であるということのすべてでした。弟子たちは、イエスがその生き方、充実した人生を目にしました。それを教えられたというよりも、教えられたように行動した、と表現する人もいます。アウグスティヌスはよく、Scientia(真理の知識)とSapientia(知恵)について語っています。そして常に、Scientia(客観的な真理の知識)はSapientia(神の栄光のために人生をうまく生きること)に従属するものだと主張していました。私たちはそれをひっくり返し、Sapientia(賢明さ)を完全に失ってしまいました。今日、知恵とはいくつかの短い名言のようなものであり、それ以上のものはありません。ですから、この世代が「思考体系が人生にどのような違いをもたらすのか」と問うのは良いことだと思います。それは魅力的なのか、美しいのかという問いかけです。それは本当に積極的な動きだと思います。となると会話の進め方が非常に重要になります。こういう動きは教会にとって喜ばしく、受け入れるべきことだと思います。
BJO: あなたの著書の中で、私たちは生活を整理する際に、時に多くのものを捨て過ぎていると述べていますね。 整理し過ぎて、本来は取っておくべきものを捨ててしまうと。 著書では、近代と啓蒙主義は良い整理をもたらしたが、ネガティブな整理もあったと述べています。 近代の世俗的な考え方から、本質的には神が捨てられたからです。まずは良い面についてお話しましょう。啓蒙主義の時代に起こった有益な整理とはどのようなことが挙げられますか?
PN:方法論的には、宗教改革の時代に最初に登場した「ad fontes(原典に立ち返れ)」という言葉が、非常に重要な領域のひとつであったと思います。宗教的、神学的には、それは聖書に立ち返ることを意味していましたが、それだけではありませんでした。それはまた、科学的な意味での仮説を検証するという感覚でもあり、ただ盲信したり権威を盲目的に信じたりするということではありません。その結果、科学は飛躍的に進歩しました。次に芸術について考えてみましょう。芸術の原典にたどり着くということは、ただ何かの解説を読むということではなく、原典を読むということです。デカルトについて何かを研究しているなら、デカルトを読んでください。そうすれば、デカルトを知ることの素晴らしさを理解できるでしょう。
Ad fontes(原典に立ち返る)という考え方は、私たちが多大な恩恵を受けてきた大きな方法論上のポイントであり、この観点から個人の尊厳についても考えることができます。 個人の尊厳に対する理解や再認識は、人々を一般的に国家主義者や伝統主義者の社会といった集団的な制度によって定義づけさせるのではなく、神に似せて作られた存在としてのアイデンティティを、実際に生きる個人として捉えるという点においてきわめて重要な意味を持ちます。 また、個人の尊厳は平等にもつながっています。例えば、男女間の平等、人種間の平等、教育の平等など、重要な分野における社会変革につながっています。
全体的に見ると、人権や個性の成長など、ポジティブな面が大きかったと言えるでしょう。 現在では個人主義の行き過ぎが見られますが、集団や国家だけが重要で、個人はまったく重要ではないという状態には戻りたくありません。
BJO:あなたの著書の序文に「私たちは、自分たちが必要としているのに、もはや見つけることのできない何かを求めて、後悔の念に苛まれていることに気づく」という一節があります。啓蒙主義のプロジェクトや、過去200年間のその発展によって失われたものとは何だとお考えですか?
PN:そうですね、この本の全体的な仮説は、私たちは神を捨てたというものです。もちろん、神を実際に追い出すことはできません。しかし、思想の世界に対する私たちの態度、人間としての私たちの反応という観点では、私たちは神を追い出してしまったのです。これは、私たちが大切にしているものの基礎に見られます。西洋では、人々の権利について情熱があり、そして当然ながら関心があります。しかし、権利を本当に理解する感覚はありません。権利とは何かという土台を共有していなければ、それは明白ではなくなります。代わりに、「なぜ、すべての人間は平等であると主張することが正しいのか?」という疑問が生まれます。
思想の世界に対する扱い方、人間としての対応の仕方において、私たちは神を追い出してしまったのです。
なぜそんなことになっているのでしょうか? それに社会のほとんどの領域ではまだ平等とは言い難いのです。例えば、スポーツチームは能力によって評価されます。プロのスポーツ選手は、能力が高ければ高いほど高い報酬を得ます。それでは、なぜ私たちは生まれたばかりの人々をそのように評価しないのでしょうか? これが標準であるならば、障害があるために特定の能力に欠ける人は価値が低いなどという考えが、なぜそれほど嫌悪感を抱かせるものなのでしょうか? もちろんクリスチャンとして私は、(平等の根拠は)神の似姿として造られたからだと信じています。特定の障害や機能障害に関わらず、誰もが深く尊い存在です。しかし世俗的な観点から見ると、なぜ私たちは不平等にそれほど嫌悪感を抱くのでしょうか? それはどこから来るのでしょうか? しかも誰もがそれに同意しているわけではありません。
人種についても、異なる民族背景を持つ異なる色の肌の人々が平等だとは、一見したところではまったく明白ではありません。それぞれ明らかにさまざまな点で異なっています。それでは、なぜすべての人種が価値において平等であると言えるのでしょうか? 繰り返しになりますが、クリスチャンとして、私はどんな人種であっても価値において平等であることを知っています。なぜなら、彼らは皆同じ神の似姿を宿しているからです。誰であれすべて等しく価値があり、尊いのです。性別についても同様です。しかしその考えは明白ではなく、世界のある地域や歴史のほとんどにおいて、明白だったり合意されたことはありません。
土台のないものを揺すると沈むのは周知の事実です。そして、それが実存的に感じられるのが「沈みゆく感覚」だと思います。神と、神に似せて造られた人類という真実を無視すると、私たちは本質的な土台を失います。なぜ私たちは、世界のほとんどがキリスト教が存在しなかった時代に戻るわけがないと考えるほどおめでたいのでしょうか。むしろこの世界は「いいえ、私たちは平等ではない。ある人たちは他の人たちよりも優れている」という理解のもとに機能してきました。ですから私は神がこの世界を創造されたと宣言することに情熱をもっているのです。なぜなら神無しでその土台を揺さぶると簡単に崩れ落ちる世界だからです。私たちはその土台を元に戻す必要があります。
BJO:あなたは、世俗的な大規模プロジェクトの欠陥のある土台が、このような危機の瞬間に露わになるという仮説を提示しています。また、人々が自分たちが泳いでいる水について理解するのを助けるというイメージも使っています。あなたは、自分が関わっている状況をどのように理解していますか? またあるがままの姿を見るために、ある程度の距離を保っているのでしょうか?
PN: とてもいい質問ですね。一言で言えば私たちは皆、葛藤しています。そして、まず最初にするべきことは、盲点が盲点であると認識することだと思います。盲点がないと主張する人は誰でも、最大の盲点を持っているのです。だから私は認識論的謙虚さ、つまり自分が認識できることの限界を知る謙虚さを大切にしています。これは人間であることの一部であり、私自身の文化や最も身近なものは、常に私の最大の盲点となるでしょう。それを自覚しておくことは本当に役に立ちます。
少しずつ年を重ねるにつれ、そうすることで私はより良い聞き手になることにつながったと思います。説教する人間は一般的に話し上手ですが、そのせいで聞き上手ではないことが多いのです。 その欠点を補うために、私は意識的に自分とはまったく異なる人々と時間を過ごすようにしています。 ロンドンのようなグローバル都市にいると、さまざまな背景や民族、人生経験を持つ人々が多くいるので、そのような人たちに出会えるのは本当に素晴らしいことです。
旅行をして異文化に触れることも、傾聴の練習になります。私はアフリカと中東文化にかなり長い時間接してきて、とても大きな影響を受けました。特にアフリカの兄弟姉妹たちとは非常に異なる経験をしてきましたが、キリストにあって結ばれています。私は読書をするのが好きで、旅行ができない場合はそれも役立ちます。読書自体が旅のようなものだとよく思います。さまざまな地域の考えを読むことは、西洋では決して得られないような物事を見るための異なるレンズを得られるからです。つまりどれも同じことですが、謙虚に耳を傾けることが重要です。
そして、本当の意味でよく聞くこと。私たちは「わかった」と言って次に進んでしまいがちですが、聞く際には、一般恩恵があることを認識しなければなりません。すべての真実は神の真実であり、神は真実を恐れません。さらに、偽りや悪事は真実の歪曲、あるいは善の歪曲です。それを理解すれば、どのような状況でも善を見出し、その部分を肯定することができます。
耳を傾けるとき、私たちは一般恩恵を認識しなければなりません。
BJO:あなたの著書から具体的な例を挙げてみたいと思います。関連するトピックの章のひとつに、現代とポストモダンのプロジェクトを踏まえたアイデンティティに関する章があります。これらのプロジェクトが掘り起こそうとしている善とは何でしょうか。また、私たちはどのようにしてこれらのプロジェクトに対応すればよいのでしょうか。
PN:私は、アイデンティティに関するそういった物語(ナラティブ)の違いを理解することが本当に重要だと考えています。近代は、自分自身に忠実であること、自分自身を見つめること、あるいは自分自身を見つけるために休みを取って出かけようと勧められます。こうした枠組みのすべてにおいて、ずっと奥深いどこかに一貫した「あなた」がいて、それを見つけなければならないことが前提となっています。それはしばしば、社会や文化、周囲の人々によって覆われたり、隠されたり、不明瞭にされたりしている「あなた」です。つまり、これはカミングアウトの物語につながります。「何年も何年も、私は自分らしくいることを許されなかったが、ついに勇気を出して自分らしくいることを学んだ」というような物語です。そして、それは(本当の)「あなた」が存在するという前提に立っています。そして、十分に掘り下げてその「あなた」を見つけたら、その「あなた」に忠実でなければならないというわけです。
しかし、後期近代またはポストモダンの物語では、「ちょっと待った。もし、まだ忠実であるべき『あなた』がいると仮定するなら、その『あなた』も社会的に構築されたものだ。そして、あなたは依然として最終的に奴隷状態にある。なぜなら、それはあなたに押し付けられたものであり、あなたはそれに気づいていないだけだから。『あなた』という存在はなく、あなたはただ白紙のキャンバスで、なりたい自分になることができ 束縛される必要はない」と。つまりそこでは完全な自由こそが最高の真実なのです。
この2つのかなり一般的なな主張は、互いに競合しています。 たとえば、LGBTコミュニティでは、このアイデンティティに関する根本的な違いが大きな亀裂を生んでいます。これは、ゲイの権利を擁護する人々の多くが女性であり、彼女たちは非常に積極的にその権利を主張している一方で、女性として認識されることを選択できるのであれば、女性であることに本質的なものは何もないという考えに不安を抱いているからです。家父長制の下で月経のある身体で育つという経験やその他もろもろは何の意味もない。あなたがそれを理解していると言うことは、女性として生まれた人の葛藤や生きづらさを無効にしてしまうのです。公民権運動の分野では、そんなことは決してしないでしょう。白人が黒人に対して「あなたの苦悩は理解している」などと言うことは決してあってはならないことです。それはとんでもないことです。トランスジェンダーのすべての人々がポストモダンの物語を受け入れているわけではありません。ただ、2つの異なる物語に従って生きようとすると、緊張が生じるということです。
両立しないことを指摘することは、それらが一致しないことを示しています。「あなた」という存在に忠実でなければならないという考えと、同時に「あなた」という根本的な存在はまったくなく、あなたは白紙のキャンバスであるという考えの両方が正しいということはあり得ません。その応用について、人々を少しずつ優しく後押しするのは有益です。自分がなりたい誰にでもなれるし、「自分」という存在はないと言うなら、自分というアイデンティティには何もなく、自分が選んだものだけがあるということでしょうか? すべてが取り除かれたとき、何が残るのでしょうか? 解放されたような気分ですが、同時にとても恐ろしくもあります。
福音が私たちに与えるもの、つまり、キリストからアイデンティティを受け取ることで、自分が何かをしたからでも、自分が選んだからでもなく、キリストが自分をどのような者として造られたかということに根拠を置くことが、いかに素晴らしい解放をもたらすのかを見つけなければなりません。
一方で、もし自分自身の中を見つめて「自分」だけを見つけようとするなら、どこを見つめていることになるのでしょうか? 私たちの感情や欲望は変化します。それらは健全でしょうか? 良いものでしょうか? 見つけている部分が良いものなのか、悪いものなのか、あるいはどちらでもないものなのか、どうすれば分かるのでしょうか?
この本でその適用を少し探求しようとしました。ただし、攻撃的な方法ではなく。そして、かなりの研究と考察を経て、人々が求めている2つの主な価値観を特定しようと試みました。人々が追い求めている善とは何でしょうか?
1つは自由、もう1つは安全です。そして、実際、この2つの後期近代およびポストモダンのアイデンティティの物語の相互作用は、この2つの価値観の相互作用についてなのです。私たちは、束縛ではなく解放をもたらすアイデンティティの源を求めているのです。そして、厳しい世界を生き抜くための基盤と安心感を与えてくれるアイデンティティを求めているのです。私は、これらは神から与えられた、自由と安全への願いだと信じています。なぜなら、それらはキリストにある私たちのアイデンティティの一部だからです。しかし、私の著書では、そういった物語が自由と安全という価値を追い求めながらも、最終的にはそれらを達成できないことをたどりました。
最後に、福音が私たちにそれらを与える方法を見つけなければなりません。つまり、キリストからアイデンティティを受け取ることで、私が何かをしたり、選択したりすることではなく、キリストが私をどのような者として造られたかということに根ざしたアイデンティティを得ることで、いかに素晴らしい解放がもたらされるかということです。それは、多くの人々、クリスチャンでさえもそう考えているような拘束衣ではありません。むしろ私たちに素晴らしい安心感を与えます。なぜなら、それは奪い去られることがないからです。もし私の名前が天国で安全に記されているなら、この世の出来事によって影響を受けることはありません。私が何かをしても、それは取り消されることはありません。そして、私が本当に切望しているものを与えてくれます。福音は私のアイデンティティの願いを満たします。
BJO:現代が過去で、ポストモダンが現在であると考えるのは簡単です。しかし、あなたが言っているのは、これらの伝統や軌跡が文化の中で今もなお機能しているということですね。それが、現代社会で生きる上での課題の一部なのです。複数の相反する圧力や潮流を乗り越えなければなりません。私たちが特定の「潮流」を望ましくないと感じているように、他の人々も私たちのキリスト教の潮流を望ましくないと感じている可能性があります。この現実を、対立することなくどう受け止めればよいのでしょうか?
PN:私は、それを受け入れるべきだと思います。教会共同体を定義するもののひとつは、刷新の力です。私たちは、主と個人的に歩む日々の中で、また、毎週日曜日に集まる中で、それを実践すべきなのです。私たちはまず神に目を向け、神の素晴らしさを認識します。そして、すぐに自分の謙虚さ、堕落、罪深さを実感します。そして、そのことを告白し、赦しを受けます。そして、私たちを新しくし、変化を促す福音を受け取ります。これがミクロレベルでのダイナミクスであるとすれば、まさに今起こっているのは、文化が罪や偶像崇拝、悔い改めるべき性質を指摘しているという現象です。それは歓迎され、奨励されるべきであり、反対されるべきものではありません。
教会共同体を定義するものの一部は、刷新の力です。私たちは、主との個人的な歩みの中で毎日、また、共に集う日曜日に、それを実践すべきです。
ですがそれは文化が言うことがすべて真実であり、受け入れられるという意味ではありません。私たちの態度は、「まずあなたの言葉を聞き、その中から何が良くて何が正しく、どこを変える必要があるのかを見極めたい」というものでなければなりません。
例えば、アイデンティティについて考えてみましょう。私は長い間、教会が福音に基づくアイデンティティ(解放感と安心感をもたらす)と伝統的なアイデンティティ(束縛感をもたらす)を混同してきたと考えています。ですから、アイデンティティという重要な領域において、多くの人々が束縛を経験し、それに反抗しているのです。私たちは、それを認め、謝罪する必要があると思います。しかし、その境地に到達できるのは、鏡を見つめ、文化の声を実際に聞き、自分について語られていることを聞き、それを謙虚に受け止めることができた場合だけです。戦う姿勢よりも、その刷新のダイナミクスが鍵となります。
BJO: 牧師は、これらの議論の進める上で、また牧会する人々を弟子として育てていく上でどのようなことができるでしょうか?
PN: 一般的な方法としては、私たちは地元の教会であるべきであり、したがって地元の人々の意見に耳を傾けるべきです。地域社会で時間を過ごし、彼らの話を聞くのです。批判理論や人種的正義に関する文化的な議論は、時としてあまりにもマクロなレベルで展開され、大きすぎて威圧的になりがちだと思います。誰がそれに参加できるでしょうか? しかし、それが自分たちにどのような影響を与えるかについて、ご近所や地域社会の人々と話し合いを始めることなら、私たち皆にできることです。 自分の心を開き、家を開き、話し合いを持ち、傾聴を育むことだと思います。
もうひとつは、すべての牧師が弁明者である必要はないと認識することだと思います。私は『A Place for God』を主にクリスチャンではない人々に向けて書きました。また彼らにクリスチャンがプレゼントできる本として、クリスチャンや牧師が彼ら会話する上で役に立つように書きました。人々を助けになりたいと書いたのは、私が他の人々から助けられてきたように、私も他の人々を助けられるはずだからです。
BJO: 説教や弟子訓練に役立つ高度な文化分析を行う場合、その分析がグローバル都市には適切でも、近隣の小規模な都市には適切でない場合、リスクが生じる可能性があるように思えます。後者の状況にある人々は、「自分もこの主要な文化トレンドに関わる必要がある」と思うかもしれませんが、そういったトレンドが、彼らが奉仕する地域に主に影響を与えるものとは限らないでしょう。
PN: その通りです。私がこれまでお話してきた傾聴は、主に同心円状に行われる必要があります。地元で耳を傾け、次に地域や全国で何が起こっているかを知るのです。ロンドンやニューヨークのようなグローバル都市は、時代の先を行くことが多いですが、現代社会は相互に繋がっているため、そうした考えは小規模な都市にも浸透してきます。より大きなグローバル都市で展開されているのを見ることで、ある種の準備ができることを期待しています。ですから、ロンドンのような都市で宣教する特権のひとつは、『 A Place for God』のような本を書くことができ、他の大都市で共感を呼ぶことができることです。しかし一方で、都市以外の文脈では共感を呼ぶまでに2、3年かかるかもしれません。
地元で耳を傾けよう。そして地域や全国で何が起こっているかを知る。
さらに、より幅広い文化的な問題や考えについて振り返ることで、自分の置かれている状況が異なるものであるがゆえに、その状況について特別な洞察を得られることもあります。 もし私がアイデンティティについて考えているときに、自分の郊外の地域の人々が自分自身を見つけたいとか、なりたい自分になりたいと口にしないことに気づいたら、私が耳にしているのはより伝統的なものであり、それもアイデンティティの物語であると認識するかもしれません。 どちらの状況にも同じ福音が当てはまります。それは、同じように語りかけ、挑戦し、贖う、解放的で確かな福音です。
BJO:米国の観点から言えば、人間行動や認知発達に関する世俗的な学問は、世俗的なプロジェクトであるという理由で拒絶される傾向があります。そういったものを創造すなわち自然についての書として解読する試みと考えることがどこまで役立つのか疑問に思います。この点について、どうお考えですか?
PN:有益な指摘です。世俗的なプロジェクトは、私たちが認める以上にキリスト教的なプロジェクトに近いと思います。その理由は、ヒューマニズムのような多くの要素が含まれているからです。ヒューマニズムはキリスト教的な概念であり、人間性は非常に重要で尊厳があり、大きな進歩を遂げられる合理的な能力を持っているという考え方です。それはキリスト教の考え方ですよね。
それが土台から切り離されたり、離別したりして、歪んだものになってしまうのです。しかし、もともとはキリスト教の考え方から来ています。ルネサンスという言葉がありますが、これは「再生」という意味です。私には非常にキリスト教的な響きに聞こえますし、掘り下げて考えてみると、キリスト教的な力学が見えてきます。その力学は残っていますが、世俗化されているだけです。ですから、多くの類似点や重複があります。
また、創造物を注意深く観察し、そこから人生に適用できる真理を見分けるという考え方はキリスト教的なものです。ですから、繰り返しになりますが、私はすべての真理は神の真理であると考えています。私たちはそれに脅威を感じる必要はありません。しかし、聖書の啓示から直接受け取っていない真理はすべて、注意深く観察し、評価し、検証し、刷新する必要があります。聖書以外の思想領域で完璧なものなどあり得ません。
福音が人生のあらゆる領域を刷新するのを助けること、これが私が本当に情熱を傾けていることです。これは、私たちが持つべき本当に重要な会話だと思います。人々がそのような会話が行われているのを目にすると、キリスト教には自分たちの人生に真の変化をもたらすものがあるのだという興味が掻き立てられます。それは魅力的なものとなり、福音を彩るものとなるのです。
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著者:ピート・ニコラス
Redeemer City to Cityネットワークに属するInspire London教会の主任牧師(2021年当時、現在NY Redeemer Presbyterian Church downtownの主任牧師)であり、City to City UKの執行チームの一員でもあります。最新刊『A Place for God』は現在発売中です。また、著書に『Virtually Human: Flourishing in a Digital World』、共著に『5 Things to Pray for Your City』などがあります。