福音というレンズで見る

文化、社会規範、テクノロジーの変化が目まぐるしく見られる現代社会で、クリスチャンとしての私たちのビジョン、つまりレンズ、あるいは見方や視点といったものは本当に福音によって形作られているでしょうか。それはどうしたらわかるでしょうか。

私たちが世界を見るメガネ、つまり世界観は、あまりにも微妙で、あまりにも深く私たちの意識に根付いているため、普段気づくことがありません。その上その見方は、私たちが聖書をどう解釈するか、宣教の姿勢、地域社会との関わり方などに劇的な影響を及ぼします。「神学的ビジョン」という概念を探求する中で、私たちは世界を理解するためには福音に基づくレンズが必要だと明確に意識するようになりました。それは、私たちが信じていることと行っていることの間に位置するビジョンです。

神学的ビジョンとは、聖書の真理を理解し適用する際に用いる枠組み(またはメガネ)を指します。ビジョンと言うと、よく『未来』、『計画』、『期待』といったイメージを持ちますが、ティモシー・ケラーは『神学的ビジョン』をむしろ「物事の見方」として説明しています。それは聖書の物語を理解し、私たちの見方に新たな情報が与えられ、教理を単に知的に受け入れられるだけでなく、どのように世界と関わるか、具体的な実践方法へ確実に導く上で役立つ見方なのです。

ビジョンを形作る:教理や方法よりも 

神学的ビジョンは、単に私たちの教理的土台や宣教方法についてだけのものではありません。それはもっと深く、微妙なものです。プリズムが白色光をスペクトルの色に変える様子を想像してみてください。このプリズムの中で起こっていることが、神学的ビジョンです。教理、つまり私たちの中心的な神学的信念は、プリズムに入る光を表します。礼拝スタイルから地域社会への関与まで、宣教の表現は、出力、つまり私たちが世界に投影する色を表します。プリズム内部のプロセス、すなわち、私たちの信念がどのように行動に反映されるかということが重要な要素となります。

神学的ビジョンを開発する上で不可欠な作業のひとつは、自分自身が受ける影響を認識することです。例えば、仮に1億ドルを受け取り、その使い道に一切の制約がないという状況を想定してみましょう。 そのお金の使い方は、各自の文化的、経済的、家族的な背景によって形作られた個人的な経験や富に対する価値観に基づいて、それぞれ異なるでしょう。この例は、たとえ似通った教理的土台の理解を共有している場合でも、私たちの持つ独自の背景が私たちの意思決定にいかに影響を与えるかを示しています。同様に、神学的、霊的、文化的な影響が私たちの信仰の実践の仕方を形作ります。 

見えない影響を特定する 

ティモシー・ケラーは、キリスト教指導者たちが教理的土台の信念を慎重に練り上げる一方で、神学的ビジョンの形成を見落としがちであることを適切に指摘しています。多くの人は、その根底にある前提条件を吟味することなく、尊敬する教会の実践をただ受け入れるだけです。 しっかりとした神学的ビジョンを育むためには、私たちの視点を形成する肯定的な影響と否定的な影響の両方を特定し、精査しなければなりません。 聖書の解釈、教会の伝統、社会規範、暗黙の直感など、幅広い影響が私たちの宣教のあり方に影響を与えています。

あなたの宣教の決断に深く影響を与えた影響について考えてみてください。 あなたの背景、神学的な訓練、文化的環境、個人的な経験について考えてみてください。無意識のうちに解釈を導く声が聞こえてくることはありますか?  これらの要因がそれぞれ組み合わさって、ユニークでありながらも未検証の神学的ビジョンが生まれます。 エペソ人への手紙 4:14が警告するように、私たちは「どんな教えの風にも、吹き回されたり、もてあそばれたりすることなく」するべきであり、むしろビジョンを福音にしっかりと根ざさなければなりません。 

固定的なビジョンのリスク

神学的ビジョンを発展させないと、非効率的な宣教につながる可能性があります。多くの場合、教会開拓は最初は勢いよくスタートしますが、その方法が当初は効果的であったものの、変化する文化的背景の中で時代遅れになり失速してしまいます。ビジョンが固定化すると、私たちが届こうとしている人々の関心事や文化から乖離してしまう危険性があります。明確でダイナミックな神学的ビジョン、つまり、文化的背景が変化する中で成長するビジョンを育むことは極めて重要です。そうすることで宣教は、常に文化に対して関連性と変革性をもつことができます。

ローマ人への手紙12章2節では、クリスチャンに「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります」と勧められています。ここからわかるのは私たちは聖書によって形作られつつ、同時に置かれた状況に積極的に関わり、そこから私たちのビジョンも形作られるということです。

コミュニティが発展するにつれ、私たちの信仰の表現もまた発展していくべきです。自分たちの文脈に適応させることなく、成功したモデルをただ模倣するという罠にはまってはいけません。福音が私たちのユニークな環境とどのように相互作用するか。その理解によって、礼拝で何を歌うかといったことから、地域の人が共感できるようなプログラムを企画するために何ができるか、といったことまで、本当ののニーズにもっと十分に対応できるようになります。ある日本人牧師の例を挙げましょう。

「日本では海外のミニストリーの方法や成功例を元にしたアプローチがよく取り入れられてきました。私が以前関わっていた教派でも、ある国で成功した教会の経緯や経験を元に、そのまま日本で適応しようとしていました。それらの価値観や文化の中には、聖書に基づくものもあればそうでないものも様々でしたが、それを聖書的なものだと鵜呑みにして、教会文化やミニストリー形成がされていたのは、危険だなと思っていました。

つまりそういう適応を聖書的に見直し健全かどうか、当該文化にあって文脈化できているかどうかを判断する術を持っていなかったのです。いや、と言うより聖書という価値のフィルターを持っていたが用いていなかったと言った方が正しいかもしれません。ただ自分の教会の伝統や神学校で教えられてきた事をそのまま自分の置かれている状況や文脈を考えず用いる事は、福音というレンズ、すなわち福音にある神の知恵や視点を適応していないことになるということに気づきました。私自身も、福音はそのような機能を果たすと言うより、ただ救われる最初の段階に必要なものだと思っていました。福音を世界の全てを判断するレンズ、フィルター、もしくは知恵としては使っていなかったのです。

日本では多くの牧師が、海外の方法論を学ぶことに疲れ果て、またそれが機能しないことにうんざりしているという声も聞いたことがあります。しかし他にどうして良いかわからないという声も聞きます。私たち日本人、そして日本で宣教する人々が自ら福音を健全に適応し始める必要があるのではないでしょうか。」



福音に基づくビジョンの構築

福音に基づく神学的ビジョンを練り上げることは、究極的には孤独な取り組みではなく、共同作業です。神の呼びかけを全体として見極めるためには、信仰共同体の中で対話と内省を行う必要があります。私たちの宣教活動のどのような要素が、聖霊から与えられた新しい洞察ではなく、過去の経験を反映しているでしょうか? 私たちの教会が選ぶ賛美、説教のスタイル、あるいは地域社会への宣教活動は、福音中心のビジョンをどのように反映しているでしょうか? また、どのように適応させる必要があるでしょうか? 

リーダーは個人的な歩みを分かち合うことで、他の人々を励まし、この変革のプロセスに深く関わるように促すことができます。自分の中にある偏見を認識し、多様な視点を探求し、聖書が文化的な規範に挑戦することを許容する、という各ステップは、キリストの教えによって真に形作られたビジョンに私たちを近づけてくれます。

結論:意識的なビジョンへの呼びかけ

どうすればいいのかという私たちの疑問は、この世のパターンに適応することではなく、福音の変革力に適応することを中心としています。そうすることで、私たちの宣教の実践から個人的な交流に至るまで、すべてがイエスが体現された神の国の価値観を土台にすることができます。コロサイ人への手紙3章2節が私たちに思い出させるように、「上にあるものを思いなさい。地にあるもの思ってはなりません。」私たちは、キリストをレンズとして、すべてを解釈し理解します。

神学的に健全なビジョンを追求する中で、教会は神の使命に自らを一致させていきます。すなわち、神の光と真理を必要としている世界に対して、神の知恵と愛という約束の虹を明らかにしていくという使命です。私たちの「メガネ」、すなわち私たちの認識を形成する影響力を検証することで、私たちは神の愛をより正しく表現し、神の永遠の福音を忠実に宣言する力を身につけていくことができるのです。

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著者:CTCJ共同執筆チーム 

2025年よりCTCJでは新しい試みとして、日本の都市開拓伝道の分野でのソートリーダーを目指すことをビジョンとして掲げました。共同執筆チームはその試みの一つです。主にスタッフを中心とし、多様な背景を持つ複数の執筆者・編集者が協力し、福音を土台、また中心とし、教会開拓者に役立つトピックに多角的に取り組み、一つの記事をまとめるチームです。