本格的な訓練や学びもなく、おもにキリスト教関係の翻訳に関わるようになって20年あまり、これでいいのだろうかという戸惑いが自分のどこかにいつもあります。技術翻訳のような正確さや、文芸翻訳のような踏み込んだ意訳が、キリスト教翻訳にどれだけ、どのようなバランスで必要なのかはいつも手探りなのです。そんなことを考えていると、折々に共感し、納得し、励まされるような言葉が目に入ってきます。
例えば「訳者は役者」(深町眞里子)[i]という有名な言葉。翻訳者は著者になりきり役者として演じる者になるという視点になるほどと思い、例えば原作者が講演や礼拝で語ったビデオクリップを探して見てみます。声のトーンやアクセント、間の取り方を聞き、仕草や服装を観察します。次にこの人が日本語で話せるとしたらと想像し、頭の中で語ってみた(実際に声に出してもいいですが)言葉を書き出していきます。翻役者として著者になりきってみるのです。ただし、原文中に著者以外の様々な作家の引用があると、一人何役もしなければならないという事態にもなります。
「翻訳とは言ってみれば、いっとき他人になること」。(鴻巣友季子)[ii]いっときなので、他人になりきるだけでなく、最終的には自分に還ってくることになります。するとそこには、他人になりきる前とは違う自分がいます。一冊の本の著者になりきって福音を疑似体験できると言うのは、キリスト教翻訳という世界で与えられる特に豊かな報酬だと思います。
また「訳者は役者にとどまらない」(平野暁人)[iii]のは、翻訳者には役者だけでなく、作品全体の世界観を決定する演出家の役割もあるからだそうです。自分の経験から言っても、文章を敬体にするか常体にするか、クエスチョンマークを使うか使わないか、改行するかしないか、どの漢字を使うかなどは、役者として本人になりきるというよりは、全体を見る演出家のような働きなのかもしれません。
現代の教会開拓にも翻訳・通訳の必要が常にあります。それは海外からの宣教師や多文化の会衆のニーズがあるからだけではありません。それは思うに、私たちが普段手に取る聖書自体が「翻訳もの」だからではないでしょうか。その時代の「翻訳もの」として与えられている「よき知らせ」をどう演じるか、どう演出するかは、それぞれの開拓者に委ねられています。そして、福音という「よき知らせ」によって揺り動かされ、人生を変えられるのは観衆だけではありません。役者も演出家も新しく変えられた自分に出会い、人生が変えられ続けるのではないでしょうか。私もまたそういう者でありたいと思うのです。
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[i] https://www.yurindo.co.jp/yurin/17766
[ii] 「翻訳教室 はじめの一歩」ちくまプリマー新書 2012年、筑摩書房、p13
[iii] English Journal Online, https://ej.alc.co.jp/entry/20200708-hirano-performance-03, 2020年7月24日閲覧)
著者
廣橋麻子
神奈川県横浜市出身。神社や寺に囲まれた下町で育ち、アメリカの片田舎で洗礼を受ける。国際基督教大学大学院卒業後、出版、翻訳、教会開拓に関わる。訳書に「ジーザスバイブルストーリー」「放蕩する神」「偽りの神々」「結婚の意味」「イエスと出会うということ」など。夫、信一(日本長老教会)がプロジェクトマネージャーであるセンターチャーチの翻訳担当。