Name It — ‘何か’ を言葉にすること

Name It —   ‘何か’ を言葉にすること

なぜ悲しいのか、なぜ怒っているのか、なぜ逃げたいと思うのか、なぜ失望しているのか、本当のところの、本当の理由が何なのか、あまりわからないまま過ごすことの方が多いように思います。なぜ嬉しいのか、なぜ今日は気分がいいのか、なぜ挑戦しよう!と張り切ったのか、本当のところの、本当の動機が何なのか、あまり考えずに過ごすことの方が多いのではないでしょうか。英語で”Name it” と言うフレーズを頻繁に耳にした時期がありました。

コロナと伝道の機会

コロナと伝道の機会

天災地変が起こったり疫病が蔓延したりすると、仏教も神道も、それを祟りと言う言葉で説明する。祟りを避けるために、神、仏、あるいは亡霊を拝む。それ以外何も出来ない。儒教は、天災地変を天命として抵抗せ ずに受け取る事を 説く。この三つの宗教と教えは、諦観を処世術として教えているだけだ。

贈答文化の中で福音に生きる

贈答文化の中で福音に生きる

日本で宣教するにあたり福音に根ざした教会文化の中にも混在する日本の伝統・文化や慣習に対してどう向き合っていくかということがひとつの鍵になるかと思います。海外から来られた宣教師の皆様も日本に長年住んでいるうちにいつの間にかお辞儀を無意識にすることが増えていたり、些細なことでも日常的に「すみません」を多用してしまったり。気付かない内に日本の文化を自分のものとして受け入れていると感じることはありませんか?

失敗だらけの教会開拓

失敗だらけの教会開拓

今から24年前、私は福音自由教会の国内宣教師として沖縄に派遣された。昔の福音自由教会は、日本の教団教派の中で最も教勢が伸びたところの一つである。教会を開拓しても3~4年で次々と自立していった。ただ沖縄は難しいと聞いていた。実際最初の牧師は半年で辞め、そのあと何人かの牧師が派遣されたが、いずれも任期は3年以内、自立も遠かった。しかし私は「自分ならすぐに自立出来る、余裕だ」そう考えた。最低でも2~3年、早ければ1年ぐらいで出来るのではないか、ここは新記録を目指してみるか!などと鼻息荒く、意気込んでいた。

霊的うつ状態と教会の福音文化

霊的うつ状態と教会の福音文化

生活や宣教活動、そして仕事に対する独特なプレッシャーにより、それまで気付かなかった心の偶像が表面化されることがあります。私はこれまで牧会の働きの中でうつに悩む人のカウンセリングをしてきましたが、霊的なうつは信仰の弱い人が悩むものだという考えが僅かながらありました。しかし、教会史を見ると真理以上の真実はない事が証明されています。霊的う つ状態は、歴史上最も優れた人々にさえ影響を与えました。