祈りたくない人がいる時

祈りは難しい人間関係において平和を保ったり修正するための力強い命綱であるにもかかわらず、往々にして私たちはそれを活用しきれずにいます。祈ることで、欲求不満、怒り、距離感を持つ代わりに、私たちは困難の只中へ神を招き入れるように促されます。そうやって神に私たちの心を練り直し、神の心を反映するものへと形づくってもらうためです。1 しかしイエスが命じた「敵を愛し、敵のために祈る」という教えは、私たちの本来の傾向とは全く対照的です(マタイ5:43-46)。

私たちの人生では、誰でも(友達や配偶者のような近い関係でも)理解不足や厳しい批判、誤解によって「敵対者」に変わることがあります。そういう時、自分を被害者だと感じるかもしれませんが、それでも私たちは自分の応答に責任を持たなければなりません。相手を敵対者として認識できて初めて、イエスの「彼らのために祈りなさい」という教えを受け入れられるからです。

それでは私たちは祈りにくい人のためにどう祈ったらよいのでしょう。

恵みの新たな深みを解き放つ

祈りたくない人のために祈るという発想は、はじめは気が重いかもしれません。しかしそういった難題にはある種の美しさがあります。私たちは与えることで受け取り、赦すことによって赦されるからです。 イエスは、あわれみには相互性があることを私たちに思い出させます。もっと踏み込んであわれみを与える時、私たち自身もそのようなあわれみを受けることになるのです(ルカ6:36-38)。諦めずにそのように祈り続けると、恵み、赦し、自分自身の発見など、さらなる深い成長の旅が始まります。

使徒ペテロは赦しについて質問しました。七回まで赦せば十分なのかと。イエスはこう答えています。「わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです」(マタイ18:22)。この赦しへの呼びかけは、神の無限の恵みを倣ったもので、私たちを傷つけた人々との関わり方を再構築する可能性を秘めています。

私たちを傷つけた人々のために祈る

私たちを傷つけた人々のために祈るとは、優越感をちらつかせたり、距離をとって同情するような態度ではありません。それは、霊的な成長の機会なのです。祈りのリストに載っている祈りにくい人々を無視するとは、神との真のコミュニケーションに必要な、誠実さや不屈の精神を無視することです。こういった葛藤の中で、私たちが敵対する人々のために真剣に嘆願するとき、神がそこに招かれ、私たちは神の似姿に導かれるのです。

私自身、意識的に敵対する人々のために祈り始めたとき、その張り詰めた関係に苦しみ、常に後ずさりし、相手の欠点に目を向けて自分の立場を正当化していました。私は神に導きを求め、相手のプライドと認識の欠如について祈りました。数か月後、その人たちは自分の高慢さを認め、関係を修復したいと申し出てきました。同時に、私が以前よりも批判的になっていたことも指摘されました。私は以前からそれについても祈っていたので、その指摘を素直に受け入れることができました。私たちの関係はお互いの弱みをわかりあったことで理解、信頼、調和へと変わりました。この変化は私たちの関係のみならず、私の心の中にも見られました。

キリストの祈りの心を模倣する

激しい裏切りと筆舌に尽くしがたい苦悩の中にあって、イエスは世界を揺るがす祈りを吐き出します。「父よ。彼らをお許しください。彼らは自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)迫害する者のための祈りに見られる愛にあふれたこの行動は、恵みと真理の完璧な調和を示しています(ヨハネ1:14)。クリスチャンとして私たちに求められているのは、同様な調和を追求することです。祈りを通して自分の正直な気持ちを表現するうちに、私たちは絶望していたところから、神がご覧になるように、神の贖いの恵みを受け取る者として他者を見られるようになります。

祈りにくい人々のために祈ると、私たちの心は、恨みを手放し、神の主権を信頼する方向へと導かれます。このプロセスを通してキリストに似た者となると、私たちの信仰は強くされ、福音はさらに深く私たちに変革をもたらすような方法で体現されます。私たちの敵対者たちのために、祈りをもって執り成しを続けることに努めましょう。神が私たちと、またその人間関係の中でなさっている刷新のわざを信頼して。


聖書箇所

マタイによる福音書 5:43-46

観察

1. イエスは、人々が伝統的に隣人や敵との関係をどのように理解してきたかについて、何と言っていますか(マタイ 5:43)。

2. イエスは、弟子たちに敵をどのように扱うようにと教えているでしょうか(マタイ 5:44)。

3. イエスは、敵を愛する理由としてどのようなことを挙げていますか(マタイ 5:45)。

4. 自分を愛してくれる人だけを愛しても、そのことで自分が際立つことにはならないことを示すために、イエスはどのような例を挙げていますか(マタイ 5:46)。

応用

- 深く傷つけられたとき、自分を傷つけた人のために祈るという課題にどのように取り組む傾向がありますか。

- マタイ5:46を振り返ってみましょう。愛を返してくれない人を愛し、赦すことがなぜ重要なのでしょう。

- かつて「敵」だと思っていた人のために祈ったことで、あなたの視点はどのように変化しましたか。霊的・感情的な成長にどのように役立ったでしょうか。 誰かのために祈ったことで、困難を乗り越え成長できた個人的な経験があれば書き出してみましょう。

脚注1  このフレーズは、アッシジの聖フランチェスコのものと誤って引用されることが多い『平和の祈り』の一節。

Original article→https://www.resoundchurches.org/blog/praying-for-difficult-people

著者:デイミアン・グレートリー

プロフィール→

グレイトリー デイミアン

グレース教会開拓ネットワーク東京のディレクター。妻の詩子との間に3人の子どもがいる。ツイッターのフォローはこちら