福音中心的な文脈化(2)漫画「Naruto」の例

前回は、福音を自分自身の存在、人生、自分自身の『文化』にどう文脈化していくかを学びました。福音の贖いのストーリーの5つの要素(創造、堕落、贖い、刷新、そして完成)を自分自身に当てはめ、以下のような質問を問いかけながら、福音を適応してみました。

師匠を偲ぶ

師匠の訃報を聞いた。

私は一時期、この師匠から日本舞踊を習っていた。正確には賛美舞踊というこの師匠オリジナルの芸事だ。戦前、人形問屋が並ぶ下町から師範学校附属小に通い、歌舞伎や落語など古典芸能に親しみながらも、自由で実験的な発想を持ち合わせるこの師匠から私は多くを教わった。

福音中心的な文脈化(1)

福音中心的な文脈化(1)

『福音をどう日本人、また日本文化に適応させられるだろう? 福音を日本人に分かりやく理解できるよう伝えるには、どうしたらいいのだろう?』このテーマは、25年前、私がイギリスでクリスチャンになった時からずっと考えていたことでした。

キリスト教翻訳の世界

キリスト教翻訳の世界

本格的な訓練や学びもなく、おもにキリスト教関係の翻訳に関わるようになって20年あまり、これでいいのだろうかという戸惑いが自分のどこかにいつもあります。技術翻訳のような正確さや、文芸翻訳のような踏み込んだ意訳が、キリスト教翻訳にどれだけ、どのようなバランスで必要なのかはいつも手探りなのです。そんなことを考えていると、折々に共感し、納得し、励まされるような言葉が目に入ってきます。

コロナと伝道の機会

コロナと伝道の機会

天災地変が起こったり疫病が蔓延したりすると、仏教も神道も、それを祟りと言う言葉で説明する。祟りを避けるために、神、仏、あるいは亡霊を拝む。それ以外何も出来ない。儒教は、天災地変を天命として抵抗せ ずに受け取る事を 説く。この三つの宗教と教えは、諦観を処世術として教えているだけだ。