牧師と聴衆 

ここ数年、私は米国内外の学生、牧師、信徒など、さまざまなグループを導いてきました。どれも同じワークショップで、第二サムエル記下11章(「ダビデとバテシバ」の物語)を三つの質問をもとに対話形式で進めていきます。同じ箇所を観察し質問をすることで、この章を理解する上で以下のような三つの側面が私たちにどのような影響を与えるのかを探っていきます。 

牧師の人生

牧師にとって、良い幕引きとはどんなものでしょうか。これは私が数年前、競技場で「賞」を得られるように走りなさいというパウロの勧め(1コリ9:24)について思い巡らしていた時に浮かんだ疑問です。牧師がいわゆるキリスト教界の 「殿堂入り」を果たすにはいくつものハードルがあるということでしょうか。改宗者や受洗者の数、経済的な成功などに基づいて与えられるポイントのようなものがあるのでしょうか。

想像を超える約束

これまでに彼の著書の邦訳を何冊か担当した私は、自分のことをまるで毎日劇場に足繁く通う人のようだと思ってきた。観客として最前列に座っているだけでなく、スタッフとして舞台袖に隠れて彼の稽古や演技を見たり、あるいは舞台裏で音響システムやスポットライトを必死にチェックしたりする。観客が舞台上で起こっていることを観てあんなにも息を呑み、ため息をつき、笑い声をあげ、にやりとし、あるいは涙を流すのはなぜなのだろう? それを理解するために私は文字通り劇場中を走り回ってきた。

ティム・ケラー先生を偲んで

10年前、それまで仕えていたカリスマ教会から追い出され、ミニストリーへの自信を失い、挫折し、自らの召命、アイデンティティにさえ疑問を持ち、苦しんでいた私は、「クリスチャンとして本当に聖書に基づいたアイデンティティを持って生きるとはどういうことか」「キリストと福音に本当に根ざした健全な教会、ミニストリー、教会リーダーシップとは何か」と考えるようになりました。

追悼 ティモシー・ケラー

以下はリディーマー・シティー・トゥ・シティーのHPから抜粋、翻訳したものです。

リディーマー・シティ・トゥ・シティ(RCTC)は、共同設立者であるティム・ケラーのリーダーシップ、キリストの愛を人々に伝える思いと献身に謝意を表明します。ティムがここにもういないことを思うと心からの悲しみを覚えますが、同時に彼が今、天国で救い主と一緒に喜んでいることも私たちは知っています。