CTC DNA:  文脈化とは何か?

文脈化とは、聖書の真理をそれぞれの文化に合わせて表現し、実践することです。そうすることで聖書の真理を全く妥協することなく、同時にできるだけわかりやすく説得力をもって伝えられるようになります。そのためには次にあげる二点を避けなければなりません。第一は過度な文脈化です。その文化の表現や慣習に合わせるというよりも、真理そのものを改ざんして真理を尊重することができません。第二は不十分な文脈化です。不必要に異質で理解しにくく、これもまた真理を尊重できません。

牧師の妻は牧師の妻

ある日の礼拝後。一人の女性が私の肘をつかみながら耳元でささやきました。「あちこち探したのよ!」

私は身構えました。そんな言い方の後に出てくるコメントには気をつけないと。特に教会の集まりでは。

駐車場で車のエンジンをかけっぱなしにしていたかしら? うちの子のオムツが漏れているとか? 想像したくもないけれど、説教中の夫のジッパーが下がっていたとか!

牧師と聴衆 

ここ数年、私は米国内外の学生、牧師、信徒など、さまざまなグループを導いてきました。どれも同じワークショップで、第二サムエル記下11章(「ダビデとバテシバ」の物語)を三つの質問をもとに対話形式で進めていきます。同じ箇所を観察し質問をすることで、この章を理解する上で以下のような三つの側面が私たちにどのような影響を与えるのかを探っていきます。 

CTC DNA:  福音とは何か?

初めに悪い知らせがあります。それは私たちが神から離れているという知らせです。それは私たち誰もが(無宗教者でさえ)、神に目を向ける代わりに様々な代替物で自分自身を救おうとしている事実から証明できます。私たちは、それを集団(クラス、人種、家族)レベルと個人レベルの両方で、心理的に(特技や知識)、社会的に(友人、伴侶)、政治的に(政治団体の掲げる公約)など様々な方法でが救いを求めます。しかし私たちが神から離れているということを本当に証明するのは、自分で自分を救うことができていないという事実です。財産や人種、特技に自分の価値を置くと、一時的な満足感は得られるかもしれませんが、決して本当の救いを得ることはできません。神から離れていると、どんな社会的立場にあっても誰でもいつも何かしら救いを求めるようになるからです。

教会開拓を促進させる

本来私は、こういった場に何かを書く人間ではないと思っています。それは批判されたり他人と比較されたりするのが好きではないからですが、そういう思いは全て、自分の存在意義や承認欲求など私の心の偶像の問題を表しているとも言えます。ですからこの記事がCTCJの目的とビジョンの助けとなり、日本における御国と福音の影響力がより大きくなることを祈りつつ今回筆を取ることにしました。